<かたり>について(2)

坂部恵『かたり 物語の文法』ちくま学芸文庫,2008年(弘文堂,1990年)


「かたり」が問題となるのは,それが人間の大凡の営みを包括する拡がりをもっているからである(本書27頁を参照)。
そこで著者は,主として「はなし」と対比しながら,「かたり」の特質・構造を明らかにする。まずは,「かたり」と「はなし」が次のように対比される。

「・・<はなし>のほうが,より素朴,直接的であり,それに対して<かたり>のほうは,より(二重化的)統合,反省,屈折の度合いが高く,また,日常行為の場面からの隔絶,遮断の度合いが高い。」(38頁)

「はなしにならない」<はなし>があるのに対して,「かたりにならない」<かたり>はないこと,「いわれたままをはなす」ことはあっても,「いわれたままをかたる」ことはないこと。また「およそこの世に二つとおなじ<かたり>というものは存在しないこと」(41頁)。このような日常言語の用法の反省を通じて,著者は「かたり」の特徴を次のように述べる。

「・・[「いわれたままをかたる」という表現が成立しないということ,およびそれが暗に示している「およそこの世に二つとおなじ<かたり>というものは存在しないことなど]この事実は,第一に,<かたり>が・・いわゆる世界における出来事の一回性というアスペクトと一種範例的・母型的な仕方でとりわけて深く関係することを意味し,加えて,第二に,それが,既存の生活世界の場と生活形式に加えられる一種超出的な変容(transformation, transposition, Übertragung)ないしひいてはまた二重化的超出・統合の作用とこれまた深く関係することを暗に示すと考えられる。」(41頁)

<かたり>は,<はなし>よりも,「出来事の一回性」に関わり,それだけに<かたり>の内容は「範例」的な意義をもつ,また,<はなし>が日常の生活世界の場で営まれるのに対して,<かたり>はそこから「超出」することによって,されだけいっそう<かたり>の場や主体をひとつのまとまりとして「統合」する,ということだろう,か。
ところで,<かたり>の超出・統合が「二重化的」と言われるのは,「かたり」が「語り」であると同時に「騙り」でもあるということによって端的に示される。<かたり>は「語り」でも「騙り」でもあることによって,<かたり>の主体の性質をみずから明らかにしているのである。

「[「富豪の息子をかたって金品を詐取する」といったような]この種の用法が重要性をもつのは,いうまでもなく,ここでは,<かたり>の内容でも,その言語行為のさしむけられる客体でもなく,まさにその主体のありかたが問題となるからである。「誰某をかたる」という表現においては,その言語行為の主体は,あきからに意図的,意識的に二重化されている。」(47頁)

この二重化はなぜ重要なのか。

「わたくしは,こうした二重化を,たんなる付帯的なものとしてではなく,むしろ,およそ<かたり>なるものが(無意識的にせよ,あるいは神がかりなどの場合のようにいわば超意識的にせよ)本来すくなくとも潜在的にもつ二重化的超出ないし二重化的統合といったはたらきのひとつの顕在的なあらわれと解したい。・・・[「誰某をかたる」という表現などに見られる]<かたり>の主体のありかたは,<かたり>という言語行為が,「わたしは一個の他者である」というランボーの有名なことばに示される人間の自我主体の二重構造・・の真実がもっとも典型的にあらわれる場面にほかならないことを示している・・」(48頁)

<自我主体の二重構造>とは,著者の意図を外れるかもしれないが,通常「アイデンティティ」などという言葉で想定されている「本当のわたし」などと次元が異なるものを意味していると思われる。「本当のわたし」も,「語り」と「騙り」が同時にからむ<かたり>において二重化的超出・統合としてあらわれる。「本当のわたし」と「偽りのわたし」を截然と区別することはできない。
このように,「二重化」という視点によって「かたり」の構造が見通せるようになるのだが(その分析の鮮やかさは,是非とも本書で確認してもらいたい),私にとってさらにいっそう興味深く思われるのは,<かたり>という言語行為が,「自我主体の二重構造」においてだけでなく,(それと関連しつつ)「<作者>と<語り手>」の二重構造においても顕在化するという指摘である。
<作者>と<語り手>という<かたり>の二重構造は,

「古形においては,たとえば,<巫女>とそれに憑いた<もの>ないし<もののけ>との二重化的超出ないし二重化的統合の関係としてあらわれたであろう」(49頁)

と述べられる。
もののけ>が<作者>であり,<巫女>が<語り手>であろう。今でも,例えば青森の恐山では,死者の御霊がイタコに憑いてかたる「口寄せ」がおこなわれている。
この<かたり>の二重構造は,「自我主体の二重構造」と区別はされるが,次のような形において重なりあっているようにも思われる。
つまり,「一晩かれと語り合った」と言う場合において,日常の生活を送る自己の身体(<語り手>としての<巫女>)を通して,それを反省的にみる自我(<作者>としての<もののけ>)が「かたる」,といえまいか。
ただし,「一晩かれと語り合った」という自我主体の二重性は,<もののけ>が有するような神話的時間軸を(多くの場合)もっているとはいえないだろう。これに対して,<もののけ>と<巫女>の二重性は,神話的な垂直的時間軸との関わりによって,共同体の共同性を創出する。

「こうした<かたり>の二重構造において,われわれは,<かたり>の主体の位相が,いってみれば共同体の共同性(時として欺瞞的な)創出基盤ともなる遠い神話的記憶の一種垂直的な時間の次元と交錯し,その範型的な生のかたどりの力の一端にあずかる場面に立ち会うことになる。」(49頁)

この二重性は,古形においては明瞭であるが,現代においては,あまりはっきりとはしない。
しかし,例えば,現在進行中のアメリカ大統領選挙の報道を見ていると,彼らが水平的な時間軸の議論(たとえば失業対策や保険制度)だけでなく,神話的垂直軸の言論(アメリカというものの使命)をも,いかに大切なものとしてかたっているかがわかるだろう。
このように,ものがたりは,単なる日常の水平的な時間の次元だけではなく,これを超える「神話的記憶の一種垂直的な時間」の次元にかかわるのであり,このものがたりを聴くことによって人びとは,共同性への参与を確認できるのである。

「<ものがたり>の語り手は,いわば,日常効用の生活世界の水平の時間の流れと直交する,<ミュートス>の遠くはるかな記憶と想像力の垂直の時間の次元の奥行へと参入し,二つの次元を往来しつつかたることによって,共同体の共同性の繰り返しての創出基盤ともなり,またわれわれの心性と宇宙の根底の形成力とのきずなともなるもののうちへとこころを根づかせ,また,世界と人間の生を解釈し,行動の指針をあたえる一種の母型(マトリックス)ないし範型を凝縮した形で提供するというようなこともあるだろう。」(49頁)

9月4日の問いに戻って考えたい。
テレビ解説者は,なにを根拠に,アフガニスタンについて実際に支援活動をしている人びとに対して,指図するかのようなことを言えるのか。
おそらくそれは,当たり前と言えば当たり前のことだが,同じ日本人であるという共同性の意識に基づいているのである。これを,ナショナリズムと言ってもよいだろう。アフガニスタン人の生命が何万人と失われても,あまりはなしをしない人びとが,自国人の生命が一つ失われただけで,おおくのことをはなすようになる。
ここでは,この事実を問題にしたいのではなく,このようなナショナリズムを生み出す元に<かたり>というものの構造があるらしい,ということを指摘したいのである。
そして,このような<かたり>の本源性をふまえるならば,「ほぼ点にまで縮まった「いま」への,自己の無惨な封鎖」(9月2,3日を参照)を突破するためには,<かたり>をとりもどすことがその契機になるのではないか,という見通しを考えないわけにはいかなくなる。

「・・垂直の二重化において,語り手は,古層の共同体におけるひとつの典型的な場合においては,共同体の創出基盤としての何らかの超越的なもの(ちなみに言えば,それはときに狐,狼等々の異類のかたちをとって表象化されることもあるだろう)との関係のうちに身を置き,ミュートスの遠い記憶と現実目前の日常生活世界を結ぶ往還を行き来しつつ,語り出る。」(50頁)

「<ミュートス>の遠くはるかな記憶と想像力の垂直の時間の次元の奥行」へと参入し,「ミュートスの遠い記憶と現実目前の日常生活世界を結ぶ往還を行き来」することは,しかし,だいぶ上での引用に著者が周到に指摘しているように,「欺瞞」へと通じるものかもしれない。
また,そもそもこうした語り手は,「古層の共同体」の基盤が崩壊した(ようにみえる)現代においては,どこにも存在しえないように思える。このように,<ものがたり>を(とくに政治的共同体の次元で)論じることは極めて難しい。
しかし本書が指摘するように,人間の大凡の営みが<かたり>においてなされているとするならば,簡単に<ものがたり>への失望に付く(あるいは失望に憑かれる)のではなく,「ミュートス」と「現実目前の日常生活世界」を結ぶ「往還」のあり方を考え続けることに,可能性を追求すべきなのかもしれない,などと思う。