正しく考えること─幸福論(2)

アラン『幸福論』(神谷幹夫訳)岩波文庫,1998年


昨日(9月13日)に続いて,アランの『幸福論』より。
アランは,1868年にモルターニュ・オ・ペルシェに生まれ,1951年にル・ヴェジネで亡くなった。四十年間,リセ(高等中学校)の哲学教師を務め,シモーヌ・ヴェイユもその教えを受けたという。
本書は,プロポとよばれる93の哲学的断章の集成である(本書の現代を直訳すれば「幸福についてのプロポ」となる)。これらはもともと,1906年から1936年まで新聞に掲載されたもの。アランはプロポを,毎日二時間で一気に書き上げていたという。
初版は1925年に出版され60のプロポを,第二版は1928年に出され93のプロポをそれぞれ収めている。本邦訳は,第二版による。
なお,昨日引用した「モール・ランブラン婦人への献辞」は,初版本の上にアラン自らが書いた献辞を本書のために取り入れたものである。
ところで,これらのプロポが書かれた時代を思い返すと,哲学者が時代と格闘した一つの証言を,ここから読み取ることができるように思われる。
「事故」と題されたプロポより。

「戦争に出かけていく夜のことだった。あの憂鬱な汽車のなかは,人びとのざわめきと,興奮したしゃべり声と異様なイマージュでみたされていて,ぼくは不快な思いになやまされていた。そこにはシャルルロワ第一次大戦の戦場となったベルギーの都市)から逃げてきた脱走兵たちがいた。連中は恐怖を抱くだけの暇があったのだ。・・話し手が言う,「奴らの攻撃といったら,まるで蟻みたいなものだった。撃っても撃ってもへこたれない」。みなの想像力は敗走のように混乱していた。うまい具合に,死人同然の男が口を出して,自分がアルザスにいた時,後頭部に砲弾の破片をくらってやられた時のいきさつを語ってくれた。この苦痛はもう想像的なものではなく,真実味があった。男はこう言った。「森にまぎれ込んでおれたちは走っていたんだ。おれは森からとび出した。ところが,そこから先のことはどう言ったらいいのかわからねぇ。・・目がさめたら病院のベッドの中さ・・」。こうしてぼくは,・・想像上の苦痛から現実の苦痛に引きもどされた。そこからぼくは,最大の苦痛とはものごとを正しく考えることができないことではないかと思った。・・  一九二三年八月二二日」(52-3頁)

年表を開いてみると,このプロポの書かれた年の一月,フランスはベルギーと共に,ドイツの賠償不履行を理由にルール地方を占領,また,北一輝が『日本改造法案大綱』(19年に上海で脱稿)を,ルカーチが『歴史と階級意識』を刊行,とある。
歴史という大きな物語によって描かれる苦痛と快楽は,窮境,想像によるものであるとすれば,歴史の営みを治療するためには,アランの言うとおり「正しく考える」ことが何よりも大切なのだと思う。
ところが現実ではしばしば,「正しく考える」ことよりも,むしろ「想像」に「乗じる」ことが求められる。そして「想像」に「乗じる」ことは,それに「踊らされる」ことと,殆ど区別がつかない。

「・・想像力の最初のはたらきは,いつもからだの中にあらわれる。」(34頁)

「想像力」というプロポのなかで,アランはこのように述べる。想像力というのは,身体と結びついているから,それから切り離すことは困難だ。しかしそれは,「正しく考える」ことの妨げになるばかりではない。むしろ,それ─身体と結びついている─ゆえに「本物の思惟」を導くものでもある。

「肉体から区別された魂は,いつも高邁で,感性ゆたかなものと予想したがるが,それは[何にでも興味をもつ想像力とは]正反対に,自己の利益をこまかく考えようとはほとんどしないもののように,ぼくには思われる。生きた人間の身体はより美しい。考えに引きずられて悩むが,行動することによってふっきれるのだ。むろん心の揺れがないわけではない。だが,本物の思惟が乗り越えねばならない問題は論理のそれではない。混乱の残りが思考を美しくする。・・   一九二三年二月二〇日」(34頁)

難しい文章なので,正しく解釈できているのかどうか自信はないのだが,このようなことか。つまり,まずは身体のなかではじまる,想像力によってもたらされる混乱は,行動において克服される,この行動と結びつく思惟こそ,「本物の思惟」である,と。
以前,タラル・アサドの『自爆テロ』を引用して,戦慄について考えたことがある(8月6日を参照)が,この混乱の実例が,戦慄であろう。

「・・刑を待ち受ける側の切実な思いは,戦慄以外の何ものでもないだろう。輪切りになった青虫のようだ。青虫はずたずたに切られて苦しんでいるのではないかと人は思うわけだが,では,いったい,青虫はどの塊で苦しんでいるというのか。」(36-7頁)

一九一〇年に書かれた「想像上の苦痛」というプロポで,アランはこのように述べる。書かれていることに,そう簡単にはうなずくことはできないかも知れないが,要するに,今私たちが感じる苦しみは,現実のものではなく,想像上のものであるということを,アランは指摘しようとする。
人の苦しみを苦しんでいる人と同じように想像できない人間を,酷薄な人として断罪する道徳的な傾向があるが,アランの指摘はそのようなことからは切り離して,一度は考えておいてよいことのように思われる。
なぜならば,想像上の苦痛の感染は,現実の問題をかえって見誤らせるかもしれないから。想像上の苦痛の原因を取り除こうとして多大の労力を払ったが,それなのに何の成果を挙げることも出来なかった,ということに陥らないためにも。
苦痛が,想像上のものであるということを踏まえることによってはじめて,想像が身体の上に引き起こす苦痛にいかに対処するか,ということが考えられる。
歴史にかかわる上でも,歴史の物語と出来事によってうみだされる想像の苦痛と快楽にいかに対応するか,ということが大切なのだと思う。
私たちは,多くの場合,悲しいことに,出来事に「反応」しているだけである。「反応」ではなく,「対応」が必要なのだが。
「対応」するための条件は何か。
アランにならえば,それは「正しく考えること」,つまり想像による苦痛をふっきるための行為と結びついた思考である,といえるのではないだろうか。