自閉症者のことば

ドナ・ウィリアムズ『自閉症だったわたしへ』(河野万里子訳)新潮文庫,1993年


本書の著者ドナ・ウィリアムズは,1963年,オーストラリアに生まれた。本書(原題は Nobody, Nowhere)を1992年に発表し,カバーの紹介によれば,「世界で初めて自閉症の精神世界を内側から描いた」。本書は,世界的ベストセラーになり,続編(邦訳『自閉症だったわたしへ』II, III)も出版されている。
次の引用は,著者の七歳の頃の記憶である。

「この頃わたしは,再び聴力テストを受けた。口をきくことはできても,普通の人とは話し方やことばの使い方が違ったり,言われたりすることに対して何も反応しなかったりすることが多かったので,難聴ではないかと疑われたのだ。確かに言語はシンボルであるが,ではわたしがシンボルというものを理解していなかったのかというと,それも違う。わたしにはちゃんと,わたしだけの話し方のシステムがあって,それこそが「わたしの言語」だったのである。まわりの人々こそそういったわたしのシンボリズムを理解していなかったのだし,そんな人々に対して,どうやってわたしの言いたいことを説明したらよかったというのだろう。
わたしは一人で,わたしだけのことばを充実させていった。・・」(82頁)

世界とは何かということを考えるとき,言葉と現実の関係はもっとも難しい課題の一つである。
自閉症者は,独特のシンボリズムを生きるがゆえに,その反省を通して,世界に関する深い哲学的な洞察に至ることが,ときにあるようだ。東田直樹さん(7月21日参照)もそのような一人であると思う。健常者の方こそ,そのような洞察に遠いままでいるのではないだろうか。

「目を閉じて,夜と昼についての,時間と空間についての,あらゆる概念から解き放たれようとしてみる。すると時間というものも,空間というものも,実はどれほどあいまいなものかということがつくづくとわかってくる。毎日当たり前のように身を委ねている時間や空間は,時計やカレンダーや建物の中に存在しているにすぎないのだ。そうしてそれらはどれも,人々の共通認識と同意のもとに,人の手によって作り上げられたものなのである。」(452頁)

村瀬学氏の『自閉症』(7月21日参照)でも,カレンダーが話題となっていた。自閉症者にしばしば見られるカレンダーへのこだわりは,村瀬氏によれば,人類がなしてきた時間への取り組みの一つの形態であり,「病理」とのみ見なすべきものではない。カレンダーは,異なるシンボリズムを生きる自閉症者にとって,健常者と共通化できる数少ない領域であり,それだけいっそう安定した世界を提供してくれるだけに,自閉症者はそれに「こだわり」を見せる,と解釈できるのである。
逆に言えば,カレンダーによる整序に代表されるようなこの世のシンボリズムの相対性というものを,自閉症者は深いところで感じているのだともいえよう。
世界は究極的には定めなきものであり,それを安定化させるために,自閉症者特有のさまざまな戦略的な振る舞いがなされるわけだが,それは健常者に理解されないために,しばしば社会的な失敗につうじる。
しかし,こうした経験を通して学ばれる世界の真理は,自閉症者のみならず,健常者にとっても有意味であると思う。なぜならば,健常者のシンボリズムが比較的安定的であるとしても,世界が究極的には保証なきものであることにかわりはないからだ。

「この世には,保証できるものなど何ひとつない。そして,傷つきやすい心は,時として自分自身の落とし穴になる。人生が長い時間をかけて教えてくれるのは,そういったことではないだろうか。自分自身をたよりに,背筋を伸ばして生きること。これが,人生の究極の教えだと思うのだ。最後は,わたしたちは皆,一人きりになるのだから。」(454頁)

この人生の教えは,昨日(9月14日)引用したアランの哲学に通じるもののように思う。アランによれば,不安が想像力をかき立て,苦痛をうみだす。それは,わたしたちの心が「傷つきやすい」からだ。アランによれば,その苦痛から逃れるためには,「正しく考えること」が必要となる。著者はそれを,「自分自身をたよりに,背筋を伸ばして生きること」という。
これは,もしかすると,仏陀が最後に弟子たちに教えたという「自灯明」(自らを灯明とし,自らをたよりとして他をたよりとせず生きよ)の教えに通じるように思うのは,身勝手な想像だろうか。
たしかに,ここには仏教でいう法がない。(「自灯明」には「法灯明」[法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよ]が続く。)しかし,著者は,次のようにも述べている。

「人は現実というものを,たよることのできる保証書か何かのようにとらえているものだ。けれどわたし自身は,ごく幼い頃から,当たり前の現実だと考えられている物事すべてを打ち消すことが,逆に心の支えだった。そうすることで,わたしは自己としての意識も打ち消していた。後に知ったことだが,これはちょうど,心の平和と静けさを達成するために行う黙想の,最も高度な段階そのものなのだ。それなのになぜ,自閉症の人間の場合には,そのように解釈してもらえないのだろう。」(452-3頁)

これを読むと,自閉症者は,実は生まれながらにして修行の世界を生きているのかもしれない,と思ってしまう。
修行のよう人生は,本人にとっても,そして家族にとっても,深刻でつらい経験の連続だと思うが,そこからうみだされる言葉が,人生を支える言葉になることもあるのではないだろうか。本書には,たしかに,そうした言葉が記されていると思う。