世界をつなぐ(1)

ジンメル「取っ手」,『ジンメル・コレクション』(鈴木直訳)ちくま学芸文庫,1999年


ジンメル(1858-1918)というユダヤ社会学者は,実に繊細な視線をとおして,豊穣な洞察を残した。
今日紹介する「取っ手」は,百年以上も前になる1905年のエセーである。
例えば水差しは,容器としての実用的価値ばかりでなく,ときに芸術作品としての美的価値を認められる。ジンメルは,水差しのもつこの二つの性格がもっとも顕著にあらわれる部分として,「取っ手」を取り上げる。

「取っ手は水差しをつかみ,持ち上げ,傾けるための部分であり,水差しはこの取っ手によって目に見える形で現実世界に,すなわち芸術作品それ自体にとっては本来存在していないはずのあらゆる外部との関係の世界に身を乗り出している。」(73頁)

取っ手は,水差しの芸術形式の中に組み込まれるが,しかし,それによって芸術作品としての水差しを世界へとつなげる。
この取っ手の有する性格に,ジンメルは「象徴的関係の有する射程の大きさ」を見て取る。

「・・あるひとつの存在が,自分を包み込む領域の統一性に完全に帰属しながら,同時にまったく別な事物の秩序から要請を受けているということ。この事物の秩序は,その存在に合目的性を課し,その形式を規定しているが,にもかかわらずこの形式は──あたかも事物の秩序など存在しないかのように──統一的連関のなかにあいかわらず組み込まれているということだ。」(84頁)

このような「ひとつの存在」とそれを包み込む「領域」との関係は,個人とそれを包む人間集団との関係に類比的に拡張される。

「私たちが加わっている驚くほど多くのサークル・・は,ちょうど水差しが実用的環境にとり囲まれているように,さらに別のサークルにとり囲まれている。そこでは,個人がより狭い,閉じたグループに属しながら,まさにそれによって,より大きなサークルに参与している。そして,その大きなサークルがより狭いサークルをいわば操作したり,自分の側のより包括的な目的論のなかに組み込む必要があるときには,そのつど,狭いサークルを利用する。」(84-85頁)

この社会的な関係性は,さらに「ひとりひとりの関心領域」についても言える,という。

「私たちが認識し,倫理上の要求に従い,あるいは客観的に規格化された構築物を作り上げるとき,私たちは私たち自身の持ち分や力をつうじて,理念的な秩序のなかに参入している。この秩序は,それ自身の内的論理ないしは趙個人的な発展衝動に駆られて働いており,そのつど私たちの全エネルギーを個々の肢体で捉え,自分のなかに組みこむ。そのとき決定的に重要なことは,私たちが,私たちを中心とする存在の完結性を破壊させないこと,そしてその存在の周縁における個々の能力,行為,当為が,その存在の統一性の法則にあくまで留まり続けるようにすることだ。しかも同時に,この存在はかの理念的な外部にも帰属しており,私たちをその外部の目的論の通過点とするのだ。」(85頁)

このような個物と他者の関係性を,ジンメルは「生の豊かさ」とよぶ。上の引用の直後に,彼は次のように続ける。

「これがあるいは人間と事物の生の豊かさということかもしれない。なぜなら生の豊かさの本質とはひっきょう,それらの相互共属性の多様性にあり,内部と外部の同時存在性にあるからだ。」(85-86頁)

難解な言葉が続くが,ジンメルの言葉には,簡単な注釈を許さぬ簡潔性と直接性があるので,引用を続けたい。

「ひとつの要素が,ある有機的連関のなかに完全にとけこむようにして,その連関の自己充足性を分かち合い,かつ同時に,まったく別の生がその要素に入り込んでくるための架け橋となりうること,そして一方の全体性が他方の全体性を,どちらか一方が他方によって引き裂かれることなしに,捉えるための手がかりとなること─これこそ,人間の世界観,世界構成におけるもっともすばらしいことだ。」(86頁)

このようなすばらしい架橋のわざを,水差しの取っ手は象徴している。
なぜ,取っ手に象徴される,ある事物と他者との,相互に共属しながら,個々に充実する関係が重要なのか。それは,このような関係が「私たちの生に,これほどまでに多様な生と共生を贈りとどけてくれる」からであるが,なぜ,そもそもそのようなことが可能となるのであろうか。それは,

「・・魂もまた,ひとつの世界の調和に自らを必要不可欠な部分として帰属させ,同時に,この帰属性を魂に課している形式にもかかわらず,否,その形式のゆえにこそ,もう一方の世界の網の目と意味のなかへ入りこんでいくからだ。魂の自己完成は,この二つの課題をどこまでなしとげられるかにかかっている。」(86頁)

このように,魂を通して,多様な世界は架橋される。それは,美的価値を体現する芸術作品としての水差しと,実用的価値を担う道具としての水差しの,二つをつなぐ取っ手である。上の引用の直後には次のように続く。

「そのとき魂は,さながらひとつの世界──現実の世界であれ,理念の世界であれ──がもうひとつの別の世界にさしのべた腕となる。それはもうひとつの世界をつかみ,それを自分につなぎとめる腕であると同時にまた,その世界からつかまれ,その世界につなぎとめられる腕となるのだ。」(86-87頁)

さまざまな世界が,このような形で多層的に架橋し合うための取っ手となるような魂は,どこにあるだろうか。
しかし,こうした問いかけは,性急すぎるのだろう。
むしろ,ジンメルの視点,あるいは方法から,何を学べるのか,と問う方が有意味なのかもしれない。
本書巻末の解説で,北川東子氏は次のように述べている。

「・・ジンメルの意図は・・「物質の言語」を写し取ることにあった。彼は,ことばと表象とが合体して,物の姿が語りかけるようになる場に身を置こうとする。」(306頁)

さらに,訳者の鈴木直氏は,人間の営みに付きまとう「葛藤」にジンメルの焦点があったと指摘したうえで,その葛藤の出現形態の一つとして,

「・・部分が全体の実用的な目的連関にますます深くとりこまれながら,ますます自分を自己完結した一個の全体として自覚するにいたるという,この近代的主体の二重性」(319頁)

を挙げる。
大切なのは,個物のつながり方をみるための方法的視点であり,それに関してジンメルは多くのことを教えてくれる。