世界をつなぐ(2)

ジンメル「橋と扉」,『ジンメル・コレクション』(鈴木直訳)ちくま学芸文庫,1999年


昨日に続いてジンメルを取り上げる。
「橋と扉」は1909年のエセーであるが,「取っ手」(9月18日参照)と同様の観点から,標題となっている物質的なものの両義的意味が解釈されている。

「外界の事物の形象は,私たちには両義性を帯びて見える。つまり自然界では,すべてのものがたがいに結合しているとも,また分離しているとも見なしうるということだ。」(90頁)

結合しているとも,分離しているとも見なしうるのは何故か。

「物質を構成するどの部分も,他の部分と空間を共有することはできず,空間のなかでは多様なものの真の統一はありえない。自然のなかの存在は結合と分離というこの両立しえない概念が同じように成り立つことを要求することによって,かえってこのいずれの概念の適用からもまぬがれているように見える」(90頁)

からである。
しかし,人間は異なる。

「自然と違って人間にだけは,結びつけたり切り離したりする能力が与えられている。しかも,一方がつねに他方の前提を成しているという独特の方法で,私たちはそれを行う。」(90頁)

くどくどと引用したのは,これがジンメルの方法的視点として重要な言葉だと思うからだ。そしてこれは,私たちがものを見る場合にも,重要な役割を果たすと思う。
あるものどもを一なるものとして見ているばあい,私たちはそれを「結合」している。しかし,結合が可能なのは,それらが分離しているからである。
逆に,あるものどもを異なるものとして見ているばあい,私たちはそれらを「分離」している。しかし,分離が可能なのは,それらが結合しているからである。
これらのパターンの違いによって,人間の行動の違いが生じる,とジンメルは言う。

「人間が行動するさい,この二つの作用はいずれのパターンで出会うことになるか,つまり,結合と分離のいずれが自然な所与と感じられ,いずれが私たちに課せられた仕事と感じられるか,それによって私たちのあらゆる行動が分類される。直接的な意味でも象徴的な意味でも,また身体的な意味でも精神的な意味でも,私たちはどの瞬間をとっても,結合したものを分離するか,あるいは分離したものを結合する存在なのだ。」(91頁)

以上のように,人間行動の一般的原理を確認した上で,ジンメルは「橋」と「扉」を解読する。

「・・橋は,人間がたんなる自然的存在の分離状態をいかに一体化するのかを,また扉は自然的存在の画一的で連続的な一体性をいかに分離するかを示している。」(96頁)

橋と扉は,このような仕方で,結合と分離をなす存在としての人間の生の形式を可視化する。
それ故にこれらは,それ自体が芸術的な意味をもつと同時に,芸術的表現の対象ともなる。

「絵画がこの両者を頻繁に利用するのは,両者のたんなる外形に備わった芸術的価値によるものだ,と人は言うかもしれない。しかしかりにそうだとしても,この形態にはなお,あの秘密に満ちた出会いがある。ある形象の純粋に芸術的な意味と完成が,つねに同時に,目には見えない心的,あるいは形而上的な意味の尽きせぬ表現となるという,あの出会いが。」

ある形象の芸術的な完成が,同時に形而上的な意味の表現になるというのは,昨日も紹介した「物質の言語」という事態にかかわるように思われる。つまり,ある物質の外形の芸術的表現は,物質にすぎないにもかかわらず,同時に言語としての意味をもつ,ということ。
この二重性は,自然とは異なって,結合と分離をなしうる人間の特性に基づく。

「人間は,事物を結合する存在であり,同時にまた,つねに分離しないではいられない存在であり,かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ。だからこそ私たちは,二つの岸という相互に無関係なたんなる存在を,精神的にいったん分離されたものとして把握したうえで,それをふたたび橋で結ぼうとする。」(100頁)

これは「橋」が象徴する人間の特性である。
他方,「扉」については次のように述べられる。

「・・同じように人間は境界を知らない境界的存在だ。扉を閉ざして家に引きこもるということは,たしかに自然的存在のとぎれることのない一体性のなかから,ある部分を切り取ることを意味している。たしかに扉によって形のない境界はひとつの形態となったが,しかし同時にこの境界は,扉の可動性が象徴しているもの,すなわちこの境界を超えて,いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて,その意味と尊厳を得るのだ。」(100頁)

ジンメルは,橋や扉などの物質的形態から,そこに象徴的に表現されている生のダイナミズムを読み取ろうとする。
人間の生のダイナミズムは分離と結合によってうみだされるが,これらは,現実的な作業であると同時に象徴的な作業でもあり,実用的な意味をもつと同時に審美的あるいは心的な意味をもっている。
部分や全体,物質と象徴──これらの世界の二重性は,人間が「境界を知らない境界的存在」という分離と結合を生きる存在であることを根拠にする。
ところで私たちは,あまりにもしばしば,自分の目の前の扉が閉じられていると,考えていないだろうか。あるいは,向こう岸まで橋は通じることはない,などと。
そこには分離と結合の象徴的な能力の衰退があるのかもしれない,などと思うのは,見当違いならよいのだが。