生きるかなしみ

山田太一編『生きるかなしみ』ちくま文庫,1995年


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それはさておき・・・
本書の編者は「岸辺のアルバム」等のドラマで知られる作家である。

「・・私は,いま多くの日本人が何より目を向けるべきは人間の「生きるかなしさ」であると思っている。人間のはかなさ,無力を知ることだという気がしている。」(10頁)

この言葉は,単純なことばのようでいて,現代社会を的確に射ることばであると思う。
ただ,山田太一氏の文章が具体的に記すのは,例えば次のような事柄であり,人のかなしみのすべてを語っているようには見えないかもしれない。

「あとひと頑張りすれば収入が倍になると聞いて頑張らない人間はただの怠けものという世界であり,脳死のひとの臓器を移植すれば子どもは救かるかもしれないといわれて,そこまでして生かさなくてもいい,静かに死なせてやりたいなどといえば冷酷な親扱いされかねない世界である。そういう世の中で可能性をとことん追い求めない生き方を手に入れるには「生きるかなしさ」を知る他ないのではないだろうか?」(10-11頁)

可能性を追求する生の具体例としては,さらに次のような,ある意味ではほほえましくも見える姿が指摘される。

「・・老いてもまだ可能性を追い,あれも出来るこれも出来ると,まだ行ってない国はどことどこだとツアーのカタログをめくって,スケジュールをつくる。それが老後の有力な理想型である。」(12頁)

旅行したくても出来なかった世代が,老後のゆとりを使って,念願の旅行をするということもあるだろう。もちろん著者は,そういうことを非難したいのではない。
そうではなく,なにについても「可能性」を追求する,かなしみを知らぬ人間の欲望の根深さを問うているのである。

「大切なのは可能性に次々と挑戦することではなく,心の持ちようなのではあるまいか? 可能性があってもあるところで断念して心の平安を手にすることなのではないだろうか?
私たちは少し,この世界にも他人にも自分にも期待しすぎてはいないだろうか?
本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり,衆知を集めてもたいしたことはなく,ましてや一個人の出来ることなど,なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも,そのはかなさに気づくのに,それほどの歳月は要さない。
そのように人間は,かなしい存在なのであり,せめてそのことを忘れずにいたいと思う。」(14頁)

「心の持ちよう」などという言い方に,そんなに簡単なことなのか,という感想をもつひともあるいはいるだろうが,これはおそらく,庶民の目線でものを考える脚本家のことばなのだ,と思う。
本書には,上に引用した山田太一氏の冒頭の文章「断念するということ」の他に,氏の選んだ15の文章が収められているが,それぞれが,人の背負う「業」とでもよぶべきものを考えさせる。
「かなしみ」の形は無数にある。ひとつひとつの「かなしみ」を読むと,それぞれが,さまざまな背景や要素の偶然や必然の連なりからなる固有のものであることがわかる。それらは,決してひとつの「かなしみ」としてまとめることはできない。
私の感じる本書の効能は,かなしい出来事を勝手な筋書きで解釈する行為に対して,それを不遜な行為ではないかと疑わせることにある,と思う。このような懐疑こそ,克服の可能性によって見捨ておかれる人間のかなしみをかなしみとしておく態度に通じるのではないだろうか。
次の一文は,本書に収録された柳田國男の「山の人生」のなかのものである。孫引きだが,人間の起こす出来事について考えるときに,思い返したいことばとして引いておく。

「我々が空想で描いてみる世界よりも,隠れた現実の方がはるかに物深い。また我々をして考えしめる。」(96頁)