ベイトソン『精神の生態学』より(2)

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学 改訂第2版』(佐藤良明訳)新思索社,2000年


昨日,たまたまアンジェラ・アキの「手紙」という歌を聴いた。そのなかに「人生のすべてに意味がある」という歌詞があった。
こうした歌詞を,「説教臭い」と感じる人もいるかもしれないが,歌詞のもつそうした「教育的な」意味とは別に,「人生のすべてに意味がある」という命題の意味をそれとして考えることは,それはそれで可能なことだし,おもしろいことではないかと思う。
じつは,一昨日(10月11日)取り上げたベイトソンの理論は,このような命題の意味を考えるためのヒントも提供してくれているように感じる。
矢野智司氏の紹介によると,ベイトソンの基本的な考え方のひとつは,サイバネティックスである。
本書に収められた「サイバネティックスの説明法」(1967年)でベイトソンは,サイバネティックスでは,「出来事の行方はさまざまな拘束のもとにある」(533頁)と考えられ,「さまざまな種類の拘束が複合して,起こるべき出来事をひとつに絞り上げる」(534頁),という。
例えば,ジグソーパズルである。特定のところにはまるピースを選ぶのに,ひとまずはすべてのピースが,そこにはまる可能性を有するものと想定される。しかし,ピースの有する情報(絵や形)が「拘束」としてはたらいて,可能性が絞り込まれ,ひとつのピースが選ばれるのである。
サイバネティックスは,出来事をこのような仕方で生起していると考える。ただ,ジグソーパズルのように,可能性を有するすべてのピースがはじめから与えられているわけではなく,さまざまな代替可能性を考え,それらが選ばれずにある出来事が生起した理由を考えるのである。
このサイバネティックスの説明法は,因果論的な説明法と対比して次のように述べられる。

「・・因果論的な説明は,通常「肯定的」である。ビリヤード・ボールAがこれこれの角度でボールBに当たった,ゆえにBはこれこれの方向に動いた,という言い方をする。これと対照的に,サイバネティックスな説明はつねに「否定的」である。他にどのようなことが起こりえたかを考え,なぜそれらの代替的な経路を出来事が進んでいくことができなかったか,なぜそれらは断ちきて,残ったわずかの可能性のうちのひとつが実現したのか,ということが問われる。このタイプの説明の古典的な例に,進化における自然選択の理論がある。」(533頁)

ベイトソンは,以上のサイバネティックスの説明法が,論理学の帰謬法に対応するものと特徴づけ,さらにサイバネティックスの特徴として,マッピングという操作をつけくわえる。

マッピングとは,一種の厳密な比喩─別な何かへの移しかえ—と考えていい。代数学の命題を幾何学の座標の上に““地図”として描き,幾何学の方法で解くというのは,マッピングの一例である。サイバネティックスでは,説明のテクニックとして,現象を概念上の“モデル”にマップすることがよく行われる。・・サイバネティックな眼で世界を見るということは,現象のひとつひとつのステップに,マッピング・翻訳・変換のプロセスを見ることなのだ。」(534-5頁)

サイバネティックスは,帰謬法とマッピングにより「自然界の事象の命題的・情報的な側面」(535頁)を取り扱う。その取り扱い方の特徴を,ベイトソンは,「地図」と「土地」に喩えて説明する。サイバネティックスは「命題的・情報的な側面」を取り扱うから,「土地」そのものではなく,「地図」にかかわるのであり,そのためにサイバネティックスには,「地図」と「土地」の厳密な峻別が要請されるというのである。
「地図」と「土地」を峻別するとはどういうことだろうか。両者の混同の例が,峻別の意味を明瞭にする。ベイトソンが取り挙げるのは宗教である。

「精神の一次過程が強く発現される宗教的・儀礼的な場においては,ものの名前と名づけられたものとが,しばしば同一になる。」(536頁)

「ものの名前」(=地図)と「名づけられたもの」(=土地)が同一となるとは,例えばキリスト教聖餐式(より厳密には,カトリックの聖体拝領)である。
本論文だけでは不明瞭なので,本書に収められている別の論文「遊びと空想の理論」(1954)で補っておこう。

「コミュニケーションの進化のことで,もう一つ絡んでくるのは,コージプスキーのいう「地図と土地」の別がどのように発生したかという問題である。・・言葉とそれが表わす事物との関係は・・地図とそれが描き表わす土地の関係に近い・・」(262頁)

「地図と土地」を峻別するサイバネティックスは,ベイトソンにとって,コミュニケーションの進化という課題に絡んで問われた問題だということがわかる。さらに続けて,次のように述べられている。「パンとワイン」が聖餐式(聖体拝領)の説明となる。

「人間は,芸術と魔術と宗教が出会う暗がりにおいて,「信ずべきメタファー」metaphor that is meant を進化させている。国旗の布きれを守るために命をも投げ出して戦ったり,パンとワインにただ「われらにあたえられし,外的で可視的な現れ」以上のものを感じるのはその例だ。ここには地図と土地との区別を無にして,純粋なムード・サインによる絶対無垢のコミュニケーションに回帰する心が見てとれる。」(265頁)

コミュニケーションの進化の過程で,地図と土地の分化が生じたが,それでも人間には,両者の一致する「絶対無垢のコミュニケーション」へのあこがれが,「芸術と魔術と宗教の出会う暗がり」に残っているというのだ。
やや文脈を外れてしまった。
見通しをよくするためにまとめておくと,「地図」とは情報からなる意味の世界,「土地」とはモノからなる物理的な世界,と考えることができるようだ。
本書に収められた「形式,実体,差異」(1970)という講演の中で,ベイトソン深層心理学ユングの用語を使って,次のように説明している。

「・・ユングが指摘したのは世界には二つの種類の世界があるということであります。二つの<説明世界>があると言ってもいいでしょう。グノーシズムの用語によって,ユングはこれを「プレローマ」と「クレアトゥーラ」と名付けました。プレローマとは,力と衝撃が物事の原因となる世界であり,ここには「区切り」がありません。・・一方クレアトゥーラでは,差異こそがはたらいて結果を生んでいきます。」(604-5頁)

地図の世界は,差異がはたらくクレアトゥーラの世界。それに対して,土地の世界は,力と衝撃が物事の原因となる世界であり,そこには「区切り」はない。(「区切り」は,地図にのみある。)
さて,最初の「サイバネティックスの説明法」にもどろう。
サイバネティックスの方法が「土地」と「地図」の峻別を要求されるからといって,両者ははじめから二つに分かれているわけではない。世界は,ある一つの大きな関連性からなる宇宙である。

「メッセージとその指示対象とがひとつになって大きな関連性の宇宙を形作っていて,その宇宙の中に,メッセージが冗長性・パターン・予測可能性を呼び入れる。─メッセージが「意味を持つ」,あるいはそれがある対象に「ついて」のメッセージである,というとき,われわれはこのことを意味しているのである。」(543頁)

「宇宙の中に,メッセージが冗長性・パターン・予測可能性を呼び入れる」とはどういうことか? さらにもう一つの論文「プリミティブな芸術の様式と優美と情報」(1967)を引いておこう。

「音素の連なりでもいい,一枚の絵でもいい,一匹のカエルでも,一つの文化でもいいが,なんらかの出来事または物の集合体に,とにかくなんらかの方法で「切れ目」を入れることができ,かつそうやって分割された一方だけの知覚から,残りの部分のありさまをランダムな確率より高い確率で推測することができるとき,そこには冗長性またはパターンが含まれることになる。これを,切れ目の片側にあるものが,もう一方の側にあるものについての情報を含む,あるいは意味を持つと言ってもいいだろう。・・サイバネティックスの視点から,切れ目の片側から得られる情報が誤った推測を拘束するとも言える。」(203頁)

「切れ目」とは,要するに「地図」のことだろう。どんな「地図」でもよい。それによって,何らかの高い確率で,そこに(はっきり)描かれていない部分を推測できるとき,冗長性,あるいはパターンがある。
前述のジグソーパズルの例で言えば,パズルのピースが一片しかなくとも,そのピースが持っている情報は,パズル全体の絵がどんな種類のものかについての推測を,拘束する。このとき,ピースは「意味」をもつのである。
「地図」の情報が拘束として機能することを理解するためには,それを「土地」と混同してはならない。(パズルのピースを描かれたモノそれ自体と混同してはならない。)「地図」の情報は,あくまで地図に収まるものとして,地図のコンテクストに導き入れなければならないのだ。

「ひとつのコンテクストは一段と大きなコンテクストにつつまれ,そうやってミクロなレベルからマクロなレベルへコンテクストの階層ができている。コミュニケーションの宇宙,意味と機能の宇宙は,普遍的に,そんな構造をしているようだ。・・物理学の思考では,ミクロなものから出発してマクロな現象を説きおこすのが正しい手順なのかもしれないが,サイバネティックスでは一般に,説明の土台をマクロなものに求めなくてはならない。コンテクストがコミュニケーションを支える。」(536頁)

アンジェラ・アキの「手紙」の中の「人生のすべてに意味がある」という歌詞の意味とは何かという問いに導かれつつ,ベイトソンの著作をさまよった。
まだ問いに対する答えは不明瞭だが,解明のためのうっすらとした光はたしかにそこにあるように感じる。