ベイトソン『精神の生態学』より(3)

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学 改訂第2版』(佐藤良明訳)新思索社,2000年


ベイトソンの理論において,サイバネティックスと並んでパラドックスのコミュニケーションを支える論理階型論について見ていきたい。
論理階型論は,そもそも数学者ラッセルの理論である。(以下は,「学習とコミュニケーションの階型論」から。)

「<論理階型論>が,どんな事柄を問題にするのか,示しておこう。この理論は次のことを主張する。─正式な論理的・数学的言説において,クラスはそれ自体のメンバーに決してなりえないこと。クラスのクラスはそれがメンバーとするクラスのメンバーには決してなりえないこと。ものの名前は名づけられたものとは違うこと。」(383頁)

最後の「ものの名前は名づけられたものとは違うこと」というのは,一昨日(10月13日)のサイバネティックスのところでも出てきた。そこでは,この違いを破ってしまう「信ずべきメタファー」について紹介したが,しかし宗教的・儀礼的行為でない,行動科学の理論においても,この混同は決して珍しいことではないという。
例えば,論理階型論によれば,

「「クラスは,そのメンバーから(正しく)除外されるものの全体がつくるクラスのメンバーにはなりえない」」(383頁)

という。このことの意味をベイトソンの記述をそのまま用いて説明すれば,
1)数々の椅子というものをひとまとめにして「椅子のクラス」をつくるとき,個々のテーブルや傘は「非・椅子のクラス」に属する
2)このとき,「椅子のクラス」は「非・椅子のクラス」に数えられない
さらに,
3)「非・椅子のクラス」のように「クラスに属さないものの全体がつくるクラス」は,「クラスに属さないもの」(つまり「クラスに属さないものの全体がつくるクラス」のメンバー)に属さない
となる。まとめると,

「a─非・椅子のクラスは椅子のクラスと抽象の等級が同じである。すなわち両者は同じ論理階型に属する。
b─椅子のクラスが椅子でないとすれば,それに相応して,非・椅子のクラスも非・椅子ではない。」(384頁)

論理的言説には,このような規則があり,この規則が破られるとき,パラドックスが生じる。
ベイトソンの面白さは,論理的世界の規則を述べるにとどまらず,現象界(人間の実際の行動)における規則の破れにまで,話が及ぶことである。
「遊びと空想の理論」(1954)から引いてみよう。

「人間の,コトバによるコミュニケーションは,いくつもの対照的な抽象レベルで作動しうるものであり,また常に作動している・・。」(259頁)

これは,本ブログでもメタファーや隠喩に関連して何度か話題にしてきたことだ。
発話には,字義通りの意味を示す「指示レベル」がある。しかし,それを超えるレベルもある。これをベイトソンは,「メタ言語的」レベルと,「メタ・コミュニケーション的」レベルに分ける。
例えば(ここでもベイトソン自身が使う例をほとんどそのまま使用する),「猫だ!」という発話において,それは字義どおり「特定の猫」を指示している(指示レベル)。しかしそれは同時に,一方では,「「ネコ」なる音声とは・・・なるものを表す」等々の抽象レベルの意味を作動させる(メタ言語的レベル)。他方では,「ネコが好きな君にネコと教えたのは,好意からだよ」等々の抽象レベルの意味を作動させる(メタ・コミュニケーション的レベル)。
このメタ・コミュニケーション的レベルが,「遊び」という現象を成り立たせる。つまり,とある行為や発話において,その字義や行為が直接指示する意味しか作動しない場合,「遊び」にはならない,ということである。
10月1日に取り上げた矢野智司氏の文章に即していえば,「殴りかかる」という行為が,それが直接指示する意味としてしか作動しない場合,「プロレスごっこ」という遊びは成り立たない。(ところで,いまの子どもらは「プロレスごっこ」などするのだろうか?)
したがって,次のように言われる。

「この「遊び」という現象は,ある程度のメタ・コミュニケーションをこなすことができる動物に限って現れる,つまり「これは遊びだ」というメッセージを交換できない動物には起こりえない,現象である。」(261頁)

「遊び」というコミュニケーションで人間は「論理階型」を踏み外してしまう。
「これが遊びだ」という遊びのメタ・コミュニケーションのメッセージは,次のようなことを意味しているが,ここに「論理階型」の踏み外しがある。

「いまやっているこれらの行為は,それが代わりをしている行為が表わすところのものを表わしはしない。do not denote what those actions for which they stand would denote.」(261頁)

「いまやっているこれらの行為」(=「プロレスごっこ」)は,「それが代わりをしている行為」(=「プロレス行為」が表わす(A)ところのもの(=「プロレス」)を表わさない(B)(=「これは遊びだ」)。
ごちゃごちゃしていて,頭が混乱しそうだ。
問題は,二つの「表わす」にある。
「表す(A)」は指示レベルの「表わす」である。他方,「表す(表さない)(B)」はメタ・コミュニケーション・レベルの「表わす」である。
これらが,同義の「表わす」として混同されるために,パラドックスに陥るのである。
ベイトソンは,この「遊び」のパラドックスが「「クレタ人は嘘しか言わない(B)」とクレタ人エピメニデスは言う(A)」のパラドックスに通じるものだという。
要するに,こういうことか。
クレタ人は嘘しか言わない」というステートメントは,「クレタ人は嘘しか言わない」というステートメントが字義通りに表わすところのもの(「クレタ人は嘘しか言わない」)を(クレタ人エピメニデスが言うということから)表わしはしない(メタ・ステートメント)。
ここでも二つの「表わす」が論理階型を踏み外しているのである。
抽象化のパラドックスは,論理学者には許し難いかもしれない。しかしベイトソンによれば,より複雑なコミュニケーションのためには,これは避けがたいのだ。

「人間はパラドックスを排し,<論理階型理論>にしたがってコミュニケーションを遵守すべきだとする考えがあるが,これは人間の精神の自然からまったく目をそらした考えである。・・パラドックスが生じないようなコミュニケーションは,進化の歩みを止めてしまうのだとわれわれは考える。明確に型どられたメッセージが整然と行き交うだけの生には,変化もユーモアも起こりえない。それは厳格な規則に縛りつけられたゲームと変わるところのないものである。」(276頁)

一昨日の,アンジェラ・アキの歌詞の意味にはとても行き着かないが,人生に意味がある,ということは,人間がパラドックスを生じるようなコミュニケーションを生み出した,というところに秘密があるようだ。
論理階型にしたがうばかりの生では,歌は生まれないだろう。しかしながら,歌を生み出すような人生の特質が論理階型論を通して照射されるというのも,パラドックスのように思える。