教養と社会化

作田啓一「社会化と教養小説」,作田啓一『仮構の感動 人間学の探究』筑摩書房,1990年


作田啓一氏は,1922年に生まれ,京都大学文学部哲学科(社会学専攻)を経て,本書刊行時は甲南女子大学教授。主著の『価値の社会学』(1972年)は,岩波モダンクラシックに入れられて,2001年に再刊された。
たまたま,社会化と教養という主題に関心があり,冒頭に掲げた学会発表をもとにした小さな文章に出会った。初出は1980年である。

「わたしは,この報告において,西欧の社会における社会化と日本の社会における社会化との違いを述べ,またこの違いが教養小説の成立にどのような影響を与えたのかを述べたいと思う。」(103頁)

教養小説とは,教養のために読む小説というのではなく,社会の中で主人公が自らの人格形成・精神的心理的発展を果たしていく過程を描いた小説のこと。初期の代表例はゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』である。
この教養小説が,西欧(とりわけドイツ)で発展し,日本であまり書かれなかったのは何故か,それを日欧の「社会化」の違いから分析してみよう,という問題設定である。
ここで著者は,「社会化」という概念を「第一次社会化」と「第二次社会化」に分けて使用する。これは,社会学者バーガーとルックマンの『現実の社会的構成』(邦訳は新曜社からでている。旧版では『日常世界の構成』という題名だった)で使用された概念である。

「分業の未発達な社会では,職業の分化にもとづいた文化のサブシステムはほとんど発達していない。分業が発達している社会では,職業を異にするサブシステムごとに,状況の定義や,状況を規制する規範や,職業人としての成功の目標が異なる。このタイプの社会では,基本的な社会化を終えた少年は,その基礎の上で職業ごとに特殊化された社会化を経験しなければならない。これがP. L. バーガーとTh. ルックマンによって第二次社会化と呼ばれるものである。一方,基本的な社会化は,これに対して第一次社会化と呼ばれる。」(106頁)

分業社会において,社会化あるいはアイデンティティの形成は,複雑な様相を呈することとなる。これが,身分制の解体という一九世紀ヨーロッパ史の中でだんだんと自覚され,教養小説が求められる背景となっていくのである。

「西欧では一九世紀の前半においては,フランス革命をきっかけとする政治的解放が前ヨーロッパに広がる。人びとは固定した身分の枠から抜け出て,発展してゆく分業のシステムの中で自分の天職を見いだそうとする。それを身に着けるための社会的移動が,政治的解放によって以前よりも容易になったことも付言する必要がある。この社会の変化につれて第二次社会化の重要性が増してきた。こうした背景のもとで,アイデンティティを求めてゆく教養小説が待望される。」(107頁)

問題は,教養小説を生み出す社会的背景が,教養それ自体を困難にしているということである。

「西欧一九世紀の前半に起こった社会変動はまた,公的世界との分離をもたらした。その最も顕著な徴候は家庭と職場との空間的および時間的分離である。また取引関係に関しては,直接的接触を伴う生産者と顧客との具体的な人間関係から市場を媒介としての匿名の代替可能なインパーソナルな関係への移行があり,政治的支配に関しては,やはりパーソナルな関係から法や官僚制を媒介とするインパーソナルな関係への移行があった。公的世界と私的世界の分離のため,第一次社会化を通して学んだアイデンティティの獲得方式が,そのまま第二次社会化の過程において通用しにくくなる。そのために,公的世界の中で,かつてのようなアイデンティティを獲得することがむつかしくなる。そうであればあるほど,公的世界の中での確固としたアイデンティティが切望されてゆく。したがって,教養小説を生み出した社会的条件そのものが,Bildung[人間形成]の成功を妨げる条件ともなる。」(108頁)

西欧において教養小説が発展した背後には,人間形成としての教養がますます困難になるという事情があった。
このような社会的条件は日本でも同じだったにもかかわらず,なぜ日本では教養小説が発展しなかったのか。
この問題に対して著者は,西欧と日本における家族のあり方の相違から説明を試みる。
著者によれば,西欧の家族は夫婦関係に,日本の家族は親子関係に,優性がある。

「夫婦関係が優性の家族においては,子供にとって親たちの世界は距離をおいた彼方にある。夫婦関係の優性は,一対の男女が神の前で契約を結んで家族が成立するとみなす制度において表現されている。この制度のもとでは,子供は契約に参加していないから,家族の正式のメンバーではない。一方,親子関係が優性の家族においては,子供は生まれるや否や家族の正式のメンバーである。そこでは親子関係の連続性が親子の両方の側において強く意識される。そこでは,成人と子供のあいだの肉体的・精神的違いがどんなに大きくても,子供は成人の世界から自分が切り離されていると感じることはない。」(110-111頁)

このような家族構造の相違が,西欧と日本における社会化の性格を異なったものとする。

「西欧の子供は成人の現実という異物を呑みこまされ,また呑みこむ。日本の子供は,いわば自然におとなの現実と同化してゆく。この違いから,西欧では子供が成人になったとい,自分は社会化されたのだという意識が日本の場合よりも強いという違いが出てくる。こうした変身の意識は西欧的である。それゆえ,第一次社会化が教養小説の最初の主題となりうる。」(111-112頁)

夫婦関係が優性の家族のもとでは,子供は「外側の世界と区別された主観的現実の担い手としての個人」(112頁)を意識することが多くなり,自分の外側の世界をいかに内面化するのか,ということに強い関心をもつようになる。これに対して,親子関係が優性の家族のもとでは,そのような「個人」意識が相対的に弱く,それだけ第一次社会化が小説の主題とはなりにくいのだという。
家族構造の相違は,さらに第二次社会化の性格の違いにもつながる。

「日本の社会においては,第二次社会化のある側面が第一次社会化と連続している。それは,ここでは職業集団の中で父─息子関係を中心とする家族構造が摸倣されるからである。一つの職場の長とその部下との関係は父─息子関係になぞらえられる。さらに職業集団は,個人にとって容易に他と取り換えうるような,一時的に選択された集団ではない。・・それは容易に脱退しうるような Verein (voluntary association) ではなく,なんらかの縁によって半永久的に埋没せざるをえないような Gemeinschaft である。これに対して,西欧の社会の第二次社会化の原理は第一次社会化の原理と非連続である。そこでは,子供にとっての第一次社会化は親の世界をどのように違和感なしに取り入れるかという原理をめぐって展開される。一方第二次社会化は,このようにして形成された個人が他の個人とどのように brothers の関係を結ぶかという原理をめぐって展開される。・・ここでは行為主体による親の世界の一方的な取り入れに代わって,行為主体の世界と平等の他者の世界との相互の調整が問題となる。この二つの原理は全く異なっているので,第一次社会化の過程と第二次社会化の過程とのあいだに非連続がある。・・」(112-113頁)

第二次社会化と第一次社会化は,日本においては連続的で,西欧においては非連続的である,という。
連続的ということは,第一次社会化における親子関係の確立の仕方が,子供が自分の外側の社会とつながる方法の基本形となり,第二次社会化においても作用するということ。ここでは,個人が他者と異なる自分であるという「個人」意識は強く育たず,それために日本では,教養小説を生み出す条件に欠けた,というわけだ。
西欧と日本との対比を,西欧を模範とするような価値判断と結びつけずに理解するならば,上の分析は基本的になお首肯しうるように思う。
日本では,教養小説の代わりに,上司が親代わりというような親子関係を範型とする社会化の仕組みが,子供の社会化に大きな役割を果たしてきた。
しかし,「失われた10年」を経て,このような教養の社会的仕組みはやせほっそってきたようだ。巷間にあふれる自己啓発書は,こうした仕組みの欠けを補う,現代日本教養小説なのかもしれない。