民主主義と教養

M. I. フィンリー『民主主義 古代と現代』(柴田平三郎訳)講談社学術文庫,2007年


フィンリーは,は1912年にニューヨークに生まれ,コロンビア大学で博士号を取得した古代ギリシア史家。1954年にイギリスに渡り,のち帰化する。イギリスへの移住は,マッカーシズムを逃れるためであったという。上記の原著は1973年に出版された。
以下は,第一章「指導者と追随者」から。

「私がアテナイの民主政治の機構のいくつかについて詳細に語ってきたのは,考古家的な興味からではない。そうではなく,古代の経験は現代の民主政治とは大きく異なっているとはいえ,近代の政治学者たちが考えるほど現代と関連性をもたないわけではない,とくに指導者と追随者という論争的問題に関してそういえる,ということを示唆するためである。・・ギリシア人たち自身は民主主義の理論を発展させなかった。確かに,民主主義,観念,準則,および一般法則はあったが,それらは体系的な理論までには至らなかった。哲学者たちは民主政治を攻撃した。しかし,それにかかわった民主派の人々は,この問題についての理論は書かなかったものの,統治と政治の営みを民主的なやり方で実践することによって彼らに応えた。
一つの,そしておそらく唯一の例外は紀元前五世紀のソフィストプロタゴラスであった。彼の思想はプラトンがその初期の対話編『プロタゴラス』のなかで攻撃していることによって知られているが,そのなかでソクラテスプラトンの全作品のなかでも,稀にみるほどのあざけりと戯画化と弄びすら行っている。プラトンがこのような調子で書いているのは,プロタゴラスの道徳理論が典型的にソフィストのものであっただけではなく,その上,彼が民主的な政治理論を展開していたためだったのだろう。その理論の本質はプラトンのいっていることから判断しうる限り,すべての人間は「ポリティケー・テクネー politike techne」(政治判断の技術)をもっており,それなしでは文明社会は存在しえないというものであった。・・」(50-51頁)

民主主義が西洋思想史においてながらく呪われたものであったのは,意外と知られていない。民主主義を肯定する言説は一九世紀の初めになって現れ,その正当性が確立したのは,第一次大戦(1914-1918)後のことに過ぎない。
それはさておき,民主主義擁護のプロタゴラスとその批判者プラトンではあるが,両者は共通点ももっていたという。

「注目すべきなのは,プロタゴラスプラトンが両極端であったにもかかわらず,教育の重要性をそれぞれが強調したことである。教育という言葉を私が用いるのは公教育という現代の一般的な意味においてではなくて,過去の時代の意味,つまり古代ギリシア的な意味においてである。「パイデイア paideia」という言葉で古代ギリシア人たちが意味したのは,薫陶,または「養成」(ドイツ語のBildung)・・であり,・・道徳的特性や市民的責任感,共同体ならびにその伝統と価値との成熟した一体感の涵養であった。小さな,同質的で,相対的に閉ざされた対面社会においては,共同体の基礎的制度,すなわち家族とか共同食卓,競技場とか民会などを,教育の機関と呼んでも全く正しかった。若者は民会に出席することによって教育された。」(54頁)

古代ギリシアのパイデイア(教育,教養)は,一昨日紹介した(10月19日)近代的な分業社会のような第一次社会化と第二次社会化の分化はなかったようだ。ポリス市民である若者は,ポリスの機関・行事を通じて薫陶を受け,社会化していった。
実は,近代社会においても,このポリス・モデルは活用される。

「・・ジョン・スチュアート・ミルは一世紀前に[19世紀に],アテナイが提供すべき何かをもっていると依然として考えていた。『代議政治論』のなかで彼は次のように書いている。
「たいていの人々の日常生活には,彼らの考え方や感情に広がりを与えるものがどんなに少ししかないかということは,十分に考慮されていない。・・多くの場合に,個人は自分よりもはるかにすぐれた教養をもつ人に近づきをもってはいないのである。
市民に公共のために果たす何かの仕事を与えれば,このようなすべての欠陥をある程度まで補うことができる。もしも市民に付与される公共的義務がかなりの量にのぼることが環境上許されるならば,そのことは市民を教育のある人にするであろう。・・・」」(55頁)

話題はそれるが,この実例が,日本でも裁判員制度としてスタートする。理由づけは,ミルのようには書かれていないが。
最高裁判所のホームページにある説明によると,「国民のみなさんが刑事裁判に参加することにより,裁判が身近で分かりやすいものとなり,司法に対する国民のみなさんの信頼の向上につながることが期待されています」とある。
「裁判が身近でわかりやすいものとなる」というのは,日常生活に追われて狭い考え方をしている市民が裁判への参加を通じて教養を高め,裁判が理解できるようになる,とも読める。
他方,日弁連の説明はベクトルが逆向きだ。「さまざまな経験や知識を持った市民が、その良識に照らして「疑問の余地はない」と確信してはじめて、有罪とする。そのような仕組みが、市民のかけがえのない自由や権利を守るのです。」つまり,市民の常識が司法に反映することで,司法が健全化する,という論理である。
わずかな記述だけで最高裁判所日弁連それぞれの哲学を理解しようとするのは,もちろん無理である。しかし,小さな文言に本質が見えるということもある。
誤解のないようにつけ加えるが,最高裁が権威的で,日弁連が民主的だ,などということが問題なのではない。
19世紀にミルが心配したような,市民の視野の狭さ,生き方の狭さが,現代では克服されているといえるのだろうか。もしもそれがなされておらず,その上で古代的関心をミルと共有する立場に立つとすれば,最高裁の言い分(市民は,国家的義務を通じて,世界を広げ,教養を高める)の方が正当で,日弁連的なものの言い方は民衆迎合的(悪しき民主主義)ということになる。
他方,変化の激しい21世紀の現代においては市民こそが現実経験が豊かで,裁判官もそれに学ぶ必要があるとするならば,そして,これまた古代的関心をミルと共有する立場に立つとするならば,日弁連のものの言い方こそ正当で,最高裁は自分を理解していないのではないか,ということになる。
いずれにせよ,この裁判員制度が市民としての義務として実施され,これを通じて裁判官あるいは市民の教養の向上をはかり,市民の司法への信頼性,市民と司法の一体性を高めようとする,そのこと自体が,ポリス・モデルに属することだと言えるだろう。
フィンリーは,ミルの議論が属する古典的民主主義論の特徴を,Lane Davisによる1964年の論文から次のように引用する。

「[古典的民主主義の理論は]非常に野心的な目的,すなわち国民全体を教育して,彼らがその知的,感情的,道徳的な潜在能力を最大限発揮できるように仕向け,真の共同社会に自由かつ積極的に参加させることを眼目としていた。古典的民主主義理論はこの壮大な目的を超えて,その目標の追求のための一大戦略,つまり公教育の目的のために政治活動と政府を用いるという戦略を秘めていた。統治は大衆教育を行う上での継続的な努力であってしかるべきである。」(56-57頁)

古代においても近代においても,教育と政治はかくも密接につながるものであった。
しかしながら,ミルの議論(『代議政治論』は1861年)からはだいぶ時が過ぎた。(私たちからすれば,フィンリーの議論からもだいぶ時が過ぎた。)
フィンリーは,マス・メディアが力をもち,人々を知的に受動的なものとしていることを指摘して,「私には古典的民主主義理論の「教育的」目標の否定であるように思われる」(58頁)と述べている。
さらに彼は,政治家の職業化や,官僚制の発達を挙げ,もはや古代ポリスのような社会を作り上げることは愚かしいことであると指摘して,古代の直接民主政とは異なった新しい民主主義の「発明」を提言する。
裁判員制度がそのような新しい「発明」となれるのかどうか,それは定かではない。
ただ,かくも分断した世の中では,人々が互いの世界を知り合う仕組みがそれなりに必要なのではないかと思う。一昨日の言葉で言えば,第二次社会化の公共的な仕組みづくりが必要ではないか,ということだ。
現代の教養小説である自己啓発書(10月19日参照)は,自己利益の拡大を基本的な教義としているものが多いように感じる。自己利益の追求を悪いといいたいのではない。その営みを常に相対化する公共的・超越的な観点を保持しないと,人間は大きな過ちをしてしまいがちだ,といいたいのだ。
古代人が最も恐れた悪徳はヒュブリス(傲慢)であったという。