ベイトソン『精神の生態学』より(1)

グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学 改訂第2版』(佐藤良明訳)新思索社,2000年


9月30日,10月1日に取り上げた教育学者・矢野智司氏の考え方や方法の背後には,グレゴリー・ベイトソンがいる。
ベイトソンとは誰か。手元にある『人間学命題集』(新曜社)のなかで矢野智司氏は次のように説明している。
ベイトソン(Gregory Bateson, 1904-80)は,生物学・文化人類学情報理論・精神医学の諸領域を踏破しながら,生命の創造性と病理を,コミュニケーションの事象として問い続けた「精神の生態学者」である。学習,遊び,ユーモア,芸術,そして進化,またアルコール依存症分裂病と多岐にわたる彼の研究を支えた理論の中心は,パラドックスのコミュニケーション論であり,これは,サイバネティックスと論理階型論の2つの理論によって構成されている。」(『人間学命題集』80頁)
サイバネティックスと論理階型論についてはひとまず措いておいて,『精神の生態学』の序章からベイトソンの基本的な問題関心を読んでおきたいと思う。
ベイトソンは,自身の授業の経験にふれつつ,自分の問題関心の焦点を説明しようとする。
ベイトソンもまた(多くの教師が悩んでいるように)なかなか学生に話が伝わらなかったようだが,次の問いかけは,ベイトソンが授業で話そうとすることがいったい何に関することなのかを明快にするために役に立ったという。

「幼い子どもがホウレンソウを食べるたびに,ごほうびとしてアイスクリームを与える母親がいる。この子がa─ホウレンソウを好きになるか嫌いになるか,b─アイスクリームを好きになるか嫌いになるか,c─母親が好きになるか嫌いになるか,を知るには,ほかにどんな情報が必要か。」(22頁)

このような問いに関する討議を通して,学生がハッキリと理解することができるようになったことがあるという。

「・・この種の問題に必要なのは,母親と子供の行動のコンテクストについての情報にかぎられる,ということがハッキリと理解されてきた。この「コンテクスト」の現象,そしてそれと密接に関連する「意味」の現象の有無が,いわゆる「ハード・サイエンス」と,わたしが目指していた科学との境界を画すものなのである。」(22頁)

逆に,ベイトソンの方でも,学生と自分の考え方の違いがどこにあるかを理解していく。

「彼ら[学生]はデータから仮説へと帰納的に思考と議論を進めていく訓練は受けていても,科学と哲学の基本原理から演繹的に導き出した知識を仮説と照合していく訓練に欠けていたのである。」(23頁)

そこでベイトソンは,授業において,「未解釈のデータ」,「“研究促進的”概念」(行動科学ならば「自我」や「目的」などの概念),「基底の知」(まともな人間ならばみな真であることを疑わない真理)という三つの欄を図示して,科学の営みについて説明する。

「このように図示してみると,科学という営みの全体について,また個々の研究が立つ位置とそれが向かう方向について,多くのことがいえるようになる。─「説明」とは「基底の知」の上にデータをのせて地図を描くことだ,とか,しかし科学の究極の目標は基底的レベルでの知識を増やすことにある,とか。」(25頁)

ところが,「データから仮説へと帰納的に思考と議論を進めていく訓練」をうけると,学生は「“なまの”データを検討し,そこから“研究促進的”概念に移行していくことが進歩なのだ」(25頁)と考えるようになってしまう。「それら“研究促進的”概念は,“いまだ検証中”の仮説であって,そらに多くのデータによってテストしていかなくてはならないけれども,そうやって徐々に修正と改良を加えていけば,最後には「基底の知」のリストに加えても恥ずかしくないものが完成する,というわけだ」(25頁)。しかし,このような科学の方法をベイトソンは批判する。

「ところが現実はどうだったか。何千という頭脳明晰な人間が五十年あまりも,そのやり方で研究に励んだ結果,できたのは数百に及ぶ“研究促進的”概念の山ばかりではなかったか。真に基底的な知が,ひとつなりとも生まれただろうか。」(25頁)

ベイトソンによれば,こうした科学の現状(彼は心理学,精神分析学,人類学,社会学,経済学など,人間の行動にかかわる諸科学を念頭に置いている)は十九世紀の科学の基底構造そのものに問題があったからである。
十九世紀の科学の基底構造とは何か。それは,ニュートン以来の,因果関係を数量的に解明することを目指すものである。
しかし,このような厳格な原理に基づくハード・サイエンスの手法が生物の行動原理に適用される際,例えば人間の行動を「エネルギー」という観念で説明するような,誤ったやり方が採用されてしまったのである。
そこでベイトソンは次のように述べる。

「われわれはもう一度科学的思考の土台に立ち戻って,“研究促進的”な仮説の良否をきちんとチェックすることができるような,頼りになる基本観念のセットを探し出さなくてはならない。
・・・
・・・われわれの思考が立脚するその土台を探るのならば,科学的,哲学的思考の始原にまで─科学と哲学と宗教が,別の営みに分化し,それぞれの専門家が誕生する以前にまで─立ち返る必要があるのではないだろうか。」(28-29頁)

ベイトソンは,創成神話の例を引く。聖書とニューギニアのイアトムル族の創成神話である。
創成神話の特質は何か。ベイトソンによればそれは,「物質世界の創造の問題と秩序と分化の問題のあいだに,根底的な分離を設けている」(31頁)ことにある。そして,このような分離は,現代科学においても同様だという。「質量およびエネルギー保存の法則と,秩序・負のエントロピー・情報についての法則の間には,いまもつながりが存在していない」(30頁)。
人間の行動をエネルギーなる概念で説明しようとすることがどうしておかしいかが,ここから明らかとなる。それは,人間の行動を「物質世界」の方に結びつけようとするが,しかし,

「精神プロセス,観念,コミュニケーション,組織化,差異化,パターン等々は,あくまでも実体ではなく形式にかかわるものである。」(32頁)

この形式を説明するための理論が,冒頭に記した矢野智司の挙げる「サイバネティックスと論理階型論の2つの理論」からなる「パラドックスのコミュニケーション論」なのだろう。そしてそれは,ホウレンソウの問いのところで出てきた「「コンテクスト」の現象」の解明を目指すものなのだろう。
この連休は,ベイトソンの『精神の生態学』から幾つかの話を紹介したいと思っている。