子どもの生きる場(2)

矢野智司「子どもの遊び体験における想像的瞬間─体験を反復する創造性のコミュニケーション論」,佐藤学・今井康雄編『子どもたちの想像力を育む アート教育の思想と実践』東京大学出版会,2003年


一昨日に引き続き,矢野智司氏の論文の紹介を続けたい。
非二元論的な「純粋な知覚」を通して,言葉はたんにものをうつしとる言葉ではなく,真のメタファーとなって,世界のつながりを捉える言葉となる。(承前)
さて,真のメタファーとなる,とはどういうことか。
著者は「見立て遊び」を取り上げて,次のように説明する。

「・・見立てることは,色彩に溶ける子どもの体験のように事物に無媒介に直に一体化するのではなく,物語を挿入することによって事物を象徴化し,一旦,事物と距離を取るとともに,その距離を再び否定して,物語世界に入り込むということで事物と一体化する。つまり見立てということは,否定をしたのち,その否定を再び否定する運動によって実現されるのである。」(63頁)

例えば,シーツの折れ目を山の尾根と「見立て」,そこで想像の遊びに入り込むとき,シーツは直接的に山として現れるのではない(つまり,シーツは山ではない(否定)。直接的に山として現れたら,それは病的な精神現象であろう)。
しかし,山の世界という物語が挿入されることによって,シーツでできた山のような形姿は,山として現れる。(布団は山ではない,ということはない(否定の否定)。)
このような二重の否定によって作られる「見立て遊び」の世界は,メタファーと同型の運動だ,と著者は言う。

「このシーツの形姿を自然の風景に見立てるという遊びは,ある言葉が字義どおりの意味を指し示すと同時に,それを否定して字義とは別の意味を指し示すメタファーと原理的に同型の運動である。」(63頁)

他の本で使われていた例を使って言えば(8月3日を参照),「人は孤島ではない」という表現は,もちろん字義通りの意味においても正しい(「人は,字義どおりに,孤島ではない」)が,通常,この文章は,そのような字義通りの意味で解釈されるわけではないだろう。
なぜならば,「孤島」=「他の世界との連絡を欠いた存在」という象徴化によって,字義通りには孤島ではない人間が孤島である(孤島でなくはない=否定の否定)という意味の可能性が開かれるからである。
この象徴化によって切り開かれる意味世界があるからこそ,「人は孤島ではない」という表現は,字義通りの物理的世界における意味に加えて,メタファーとしての意味をもちうるのである。
ところで著者は,「見立て遊び」に現れるような精神的活動を人間の自由で生き生きとした活動であるとみなす。

「・・「現実」という名でよばれている堅固に思えた自己と環境との既成の関係は,遊びという魔法の力によって一瞬のうちに変容してしまい,日常以上に深くアクチュアルな世界である「遊戯世界」が出現するのだ。この遊びの世界に深く没入するとき,私たちは日常の生活以上に快活で自由になることができる。」(64頁)

ところが,日常の生活は,このような遊戯体験とは対極的な,例えば労働で支配されている。

「この遊びの体験は,日常の生活と対極の体験でもある。労働を例に取ってみるとわかりやすいのだが,日常の生活では,さまざまな有用な目的のもとに,自己は環境と距離を取り,環境を素材として切り取り,この素材に働きかける。この有用性にもとづく環境への関心は,奥行きをもった世界を手段化し断片化してしまう。」(64頁)

著者の問題関心の焦点は,ここにあると思われる。
発達心理学」や「発達教育学」などの学問では,「正常」なる「発達」概念が前提されている。それは,労働を行うための大人の能力を基準とし,子どもの発達の水準は,その基準との距離において捉えられる。
注意すべきは,こうした労働能力を基準とする「発達」概念においては,「見立て遊び」で示されるような人間経験は,直接には評価の対象とならないということである。
しかし,このような「見立て遊び」に示される能力(想像力)こそが,世界を意味あるものとするために不可欠の能力なのだとすれば,労働者となることだけを目的とするような発達重視の教育がいかに危ういものであるか,想像できよう。
著者は,「見立て遊び」のみならず,「ごっこ遊び」においても「否定の否定」という事態が生じているとし,これらの遊びにおいて起こっている事態を,コミュニケーション論の観点から次のように記述する。

「遊びにおいて交わされるメタメッセージは「これは遊びだ」というものである。・・このメタメッセージが「否定の否定」を生じさせる魔法の呪文なのだ。プロレスごっこをしている子どもたちを例に取るなら,「これは遊びだ」というメタメッセージは,「私たちが目下従事しているこの行為(取っ組み合い)は,この行為が表示する別の行為によって表示されること(本当の喧嘩)を表示してはいない」というものである・・。
このメタメッセージは,言葉を換えれば,「AはAによって表示するものを表示していない」ということであるから,これは論理的に考えればパラドックスである。遊びは,コミュニケーション理論からとらえるとき,「本当であって本当ではない」という本当と嘘とが循環するパラドックスを乗り超えることによって生起するのだ。そして遊びの楽しさはこのパラドックスを乗り超える快楽にある。」(69頁)

翻ってみれば,遊びにおける「本当と嘘」との循環は,遊びだけでなく,学問などの精神的な活動においても,重要な役割を演じている,と思う。否,正確には,学問も遊びの一種というべきかもしれない。
ところが,現代の実学志向は,「嘘」を役に立たないものとし,「本当」(つまり,産業社会において役に立つもの)とされるものばかりに,価値をおくようになりつつある。そうなると,「虚」と「本当」の循環が機能不全となり,世界との生き生きとしたつながりをもつことが難しくなるだろう。
問題はそこにとどまらない。高度に情報化された資本主義の社会においては,かつては「嘘」とみなされてきたものが,「本当」の価値(=利益)を生みだすものと評価され,教育されるべき内容とされつつある(例えば,ファッションや音楽などの文化的領域において,売れる作品を生みだす“アーティスト”への注目が高まる)。
かつてはそれで食うことなど考えられなかった生業が生みだされるということは,悪いことではない。しかし,こうなったときに,「嘘」はますます(どうやったら利益を生みだすのか,どうやったら就職に役に立つのかという形において)管理の対象となっていき,「虚」のもつ自由や豊かさは失われていくのではないだろうか。
著者の論述に戻ろう。著者は,遊びにおける,子どもと事物の接触の場面において生じる事態をコミュニケーションの形式として捉え直し,それが新しい創造の場であることを強調し,次の言葉で論文を締める。

「・・子どもの遊び体験における創造的瞬間の特徴は,・・溶解体験の反復という在り方にあり,それは自己と世界との境界線が溶け自己を失い再びその自己を見いだすという反復でもある。この溶解の瞬間は,言葉によって分節化される環境の外部に触れることであり,至福の瞬間であると同時に言い表すことのできない陶酔の瞬間でもあり,ここに創造的瞬間の秘密が隠されているのだ。」(71頁)

矢野智司氏は教育学者であるが,ここに述べられる人間と世界との関わりは,哲学者の上田閑照氏が繰り返し述べる事態にも通じるように思われる。いずれも,人間の根源的な在り方がいかなるものかを明らかにしようとしている。
私的利益という「本当」を追求するだけでなく,「虚」において「見立て」や「ごっこ」を遊ぶ人間。それは,小説や映画においてなされるだけではない。
数年前の日本政治が「小泉劇場」とよばれたように,政治という営みも,「虚」に大きくかかわる。「バブル」経済も「虚」ではなかったか。だから,「虚」の在り方にかかわる人間を反省すること,「子どもの生きる場」を究明することは,ただの遊びではないのである。