子どもの生きる場(1)

矢野智司「子どもの遊び体験における想像的瞬間─体験を反復する創造性のコミュニケーション論」,佐藤学・今井康雄編『子どもたちの想像力を育む アート教育の思想と実践』東京大学出版会,2003年


教育学者である矢野智司氏の論文を読むのは,これがはじめてである。
とある学会発表で氏の仕事を知り,強い興味を持ったのだが,ひとまず,最初に手に取ることのできた本論文から,気になるところをひろってみたい。
ニーチェはかつて,「真理において没落しないために,われわれは芸術をもっている」と述べたことがある。宗教,道徳,哲学を人間の退廃形態とみなし,そこからの救いを芸術に求めたニーチェの志向は,その後の「遊戯」研究にも受け継がれた。

ホイジンガバタイユ,カイヨワの遊戯研究の系譜において,遊びは労働に回収することのできない人間存在にとって独自な事象として問われてきた。さらに,遊びは有用性の次元とは異なるだけでなく,その有用性を破壊する独特の次元に位置づけられた。・・このような遊戯研究は,ニヒリズムの克服の課題を芸術=遊びと結びつけて論じたニーチェの影響下にある。」(57頁)

産業社会の拡大と発展の中で,労働という場こそ人間がいるべき場であるという人間観が支配的となっていったが,それに対してニーチェやその後の「遊戯」研究者は,それとは異なる人間観を唱えた。
彼らは,芸術という場,遊戯という場が,人間の生にとって不可欠であると考えたわけだが,「アート教育」の可能性を考える本書もまた,そうした人間観の系譜の中に位置づけられることは言うまでもない。そのような系譜の中で著者は,遊び=芸術という場所における人間存在の構造・枠組みをコミュニケーションの観点から記述しようとする。

「[本論文では,子ども時代の芸術的瞬間が描き出された]文学作品から子どもの遊び体験の濃密な描写を試みた事例を選び,その事例をもとにして,子どもの遊び体験と芸術家の生とに通底している「想像的瞬間」に絞り,子どもの遊び体験の芸術の芸術的な特質を明らかにしたい。」(58頁)

このようなねらいをもって著者は,ベンヤミンの『1900年前後のベルリンにおける幼年時代』を引用する。著者によって作られた訳文をそのまま孫引きする。

「「家の庭に,使われなくなって崩れ落ちそうな園亭があった。私がこの園亭を愛したのは,そこの色ガラスの窓のせいだった。そのなかに入り込んで,窓ガラス一枚一枚なでるように見てゆくうちに,いつも私は姿を変えてしまうのだ。それぞれの窓にとらえられる風景と同じように,私とは色に染まってゆく,あるときは明るく燃え上がり,あるときは暗く埃をかぶり,あるときはくすぶり,あるときは繁りあふれる風景に。それは水彩画を描くときに似ていた。私が水で溶いた絵の具の雲のなかに事物をさっとすくい収めると,事物はたちまちその奥深い内部を開いてくれた。似たようなことはシャボン玉でも起こった。私はシャボン玉になって部屋のなかを旅し,半球の天井でたわむれる七色に混じって遊び,そしてついに砕け飛ぶのだった。」・・」(59頁)

以上のベンヤミンの文章の中に,著者は「子ども時代の鮮烈な知覚体験と美的体験との類似性」を見て取る。そして,このような芸術体験と類似した子どもの知覚体験について,コップという学者の説に拠りながら,次のように述べる。(冒頭の「学習」とは,摸倣としての学習(まなび=まねび)のことであり,遊びと対立するものではない。)

「子どもの学習とはなにより「知覚の組織化」を意味する。このとき,知覚とよばれているのは,有機体の生物学的な器官ではなく,有機体と環境との接触面,つまり「有機体+環境」のことなのである。・・・・・
・・人間と環境との関係を主体−客体という旧来の二元論的な認識の図式ではなく,知覚と環境との相互進化過程としてダイナミックに[コップの理論は]とらえ[る]・・・この知覚の組織化の過程は・・その過程の内部で知覚の組織化を促す力が再帰的にフィードバックされるために,さらなる組織化(進化)を生みだす。つまり知覚の組織化は,新たな環境を開くのだが,そのことがまた驚嘆をひきおこし,新たな知覚の組織化をひきおこすのである。どこまでも開かれる環境とともに相互進化するオープン・システム,それが子どもという生の在り方なのである。」(61-62頁)

昨日(9月29日)の日記では,哲学者の言葉で「場所に開かれた在り方」が話題となったが,著者がコップの理論に拠りながらここに描くところの子どもの生は,まさに「場所に開かれた在り方」の実例であるように思うが,如何だろうか。
ここでのポイントは,知覚とが主客二元論のように截然(せつぜん)と分かたれず,「相互進化過程」として統合的に捉えられている点である。
このような枠組みで理解された子どもの世界は,さらに次のように記述される。

「[二元論ではなく,有機体+環境という枠組みでなされるこの]知覚の組織化はたんに環境を鏡に映すような再現ではなくそれ自体が創造と考えられる。・・」(62頁)
「・・この純粋な知覚作用によって,言葉はたんなる環境の表象=再現前化ではなく,「真のメタファー」となって,世界の隠された無数の生きたつながりをとらえる言葉になる。子どもが作りだす真のメタファーは,子どもの言語構造に組みこまれ,お話や物語として子どもの体験に,時間的に持続したパターンと秩序とをもたらす。さらに,宇宙にかんする一つの物語として組織化され,子どものコスモロジーが創造されるのである。」(同上)

メタファーに関連して,以前紹介したことを思い起こす。(「隠喩の力」(8月2日)と「アナロジー」(8月3日)を参照。)
そこで紹介したように,隠喩(メタファー)やアナロジーは,人間の生きる世界を構成するのに極めて根本的な役割を果たしている。それが,「有機体+環境」の中で営まれる非二元論的な「純粋な知覚作用」において生みだされるのだと著者はいう。
論文はまだまだ続くが,長くなったので,ここで一区切りとする。
重要事項の確認をしておこう。
芸術や遊戯という場所において人間は,メタファーを生の中に組みこむ。そして,以前の記事を手がかりにするならば,メタファーは人間的世界の構成に本質的なのだから,それを人間の生に組みこむ芸術や遊戯は,人間の生きる場所として,極めて重要なものとして位置づけ直される必要がある。
ひとまず以上のような見通しを確認して,今日はおしまい。