私とは何か

上田閑照『私とは何か』岩波新書,2000年


我が大学でもいよいよ本日から2学期の授業が始まりました。
本ブログもいままで以上に学生さん向けの書籍紹介という性格を強くするものと思います。どうかよろしく。

さて,この日記でもたびたび紹介している本書の著者・上田閑照氏は,幾つかのテーマを粘り強く語り続けている哲学者である。それらのテーマは,関連し合い,結び合い,一つのメイン・テーマをなしているように思う。
間違っているかもしれないが,ひとまずの見通しとして,それを「生の問題」とまとめることができるような気がする。
ところで,「生の問題」とは,それを生きる「私」の問題にほかならない。ところが,「生」も「私」も,改めて考えてみると,なかなか捉えがたいものだ。

「・・私たちが人間として生きるとは,「生命」と「生(生活/人生)」と「いのち」のダイナミズムを生きることであるが,「生命」の場所は環境であり,「生活」の場所は歴史的社会であり,「人生」の場所は人-間,すなわち人と人の<間>(いわゆる人生問題はすべてここで起こる)である。環境と歴史的社会と人-間,すなわち「生命」と「生(生活/人生)」の場所は「世界」に収められるとして,では,死の問題を潜って生きられる「いのち」の場所は何処か。それは世界内ではない。何処か。
この・・問には,さきに考察した世界の見えない二重性,すなわち「世界/虚空」ということで答えられるであろう。」(141頁)

これだけでは難解すぎるかもしれないが,引用の最後にある「世界/虚空」については,8月4・5日の日記を参照して頂きたい。
さて,それを踏まえた上で,上の文章を読み直してみよう。
人間を生物的な生命として捉える場合,実はそこで一定の(人間の存在する)場所についての理解が前提されている。同じように,人間を社会的・歴史的存在として理解しようとする場合にも。あるいは,人間が宗教的な「いのち」を生きるという場合にも。
重要なことは,それぞれの場所が重なり合ったり,並んだりしながらあるということ,その並列的・重層的な場所に,人間がある・いるということである。
ところが,例えば自然科学的な視点からは,「環境」の場所ばかりが実在的とされ,そこでは科学的調査や操作の対象となるものばかりが取り上げられて,人間の生活や,あるいは宗教的・霊的「いのち」などは,考慮に置かれることが(ほとんど)ない。
逆に,宗教的・霊的「いのち」に言及する人は,「環境」がマテリアルな水準でどのような状態にあるのか等の問題にはほとんど関心を示さない。
つまり,一定の関心に導かされた認識があるばかりで,自己の置かれた場所への自覚が足りないのである。
したがって,場所への気づきは,単なる自己認識とは異なる,自覚の経験として捉えられる。

「自覚というのは,「我が我を知る」ことではあるが,いわゆる自己認識とはちがって,「我」が置かれている場所に「我」が「我ならず」して開かれ,その場所の開けに照らされて,「我が我を知る」ことである。」(138頁)

例えば,自分の置かれた学校や家庭において,その場にある他者に対して,自らのあり方を押しつけるようなことなく,それを受け入れ・受け止めつつ,しかもなお,そこに没入して我を忘れることなく私としてある,そうしたあり方が,「「我」が「我ならず」して開かれ」ているあり方ではないだろうか。
そして,そのような場所に開かれたあり方をするときに,逆に開かれた場所のあり方(「場所の開け」)に照らされて,自覚へと導かれる,そういうことを上の文章は述べているように思う。
これらを踏まえて,本書の全体のタイトルとも重なる「私とは何か?」という章から,「私」について書かれた次の文章を引用したい。

「人間主体が「私」と言って自分を指しつつ,自分に返るその方向を否定によって翻して,他者とともにある場所に自分を開き,そのつどの相手に向かって「私」と言う。この動的な全連関が「私」ということであり,その動性から,「私」を「私は,私ならずして,私である」という自覚と見た。その際,他者と「私」のともにある「場所」が「私」を構成する一つの基本的契機であるが,この「場所」が「世界」になってゆくのである。そのつどの具体的な場所,限定された特定の意味空間はさまざまである。・・実にさまざまな意味空間が並列し,重なり合い,重層的につつみ,最終的に包括的意味空間,すなわち世界にまとめられる。というよりも,逆に言うべきである。あらゆる意味空間は世界の内にあり,世界の内で連関づけられている。世界は,意味連関の総体(ハイデッガー),意味の総枠である。人間主体が「私」と言うのは,そのつどの特定の具体的な場所においてであるが,そのこと自体,世界における出来事である。世界内存在としての人間主体は,世界において「私」と言う。したがって,世界が世界として究極的にどのような性格の場所であるかが,「私」と言う人間存在にとって決定的な問題になる。」(18-19頁)

著者は,「意味空間」としての「場所」の重なりあう「世界」においてある「私」に目を向ける。このとき「私」は,実体としてもともと存在していたわけではなく,「出来事」として生起する。
「私」を出来事として見ること,それだけでも,「私」に対する見方が,何かかわった感じがしないだろうか。