別世界の経験

上田閑照『経験と場所』岩波現代文庫,2007年
長田弘『読書からはじまる』NHKライブラリー,2006年


恐れ多い言い方かもしれないが,上田閑照氏の著作を読むと,自分が何か考えようとしていることを,先に形にして,ほら,お前はこういうことを言いたいのだろう,と差し出されているような気にさせられる。
こういう著作者の書いたものは,できるだけゆっくりと読むようにしているが,このような読書は,いまの世の中では,なかなか手に入れられなくなったとも感じている。
今や,労働の条件として,読書をする余裕が持てる程の休養がとれること,ということが,真剣に考えられていいのではないかと,世間ではおよそ誰にも相手にされないと思いつつ,考えることがある。
特に,各種のメディアを通して,指導的な立場に立つ人の話を耳にすると,そう感じることが多い。彼らは,かわいそうなことに,忙しすぎるではないか。だから,本も読むこともできずに,人から聞いてきたばかりのようなことを話すのではないか。
もっとも,こうして本を引用するばかりの私も,同じような類でしかないのかもしれないが・・・
ただ,長田弘氏の次のようなことばからは,本を読みメモをとるということが,「人から聞いてきたばかりのようなことを話す」のとは違った営みであることを予感させられる。

「「読む本」「読むべき本」が,本のぜんぶなのではありません。本の大事なありようのもう一つは,じつは「読まない本」の大切さです。図書館が,一人一人にとっては,すべて読むことなど初めから不可能な条件のうえにたってつくられるように,「本の文化」を深くしてきたものは,読まない本をどれだけもっているかということです。
今日,見逃されがちなのは,「本の文化」のそのようなありようです。読まない本,読んでいない本が大事なんだという本との付きあい方が,目先にでなく,どこまでも未来に向けられた考え方としての「本という考え方」を確かにしてきたということです。」(7頁)

「人から聞いてきたばかりのようなことを話す」のは,「目先に」ばかり気を遣うからではないか。(また,実際,そのように気を遣わなければ仕事にならないという事情もあるだろう。)
しかし,「本の文化」は,そうした「目先にでなく,どこまでも未来に向けられた考え方」へとつながる。
次に引用する上田閑照氏の文章(「木立にて」)は,いつもながら「目先にでなく」ものを考える。
これは,もともと「女人堂にて」という原題で『高野山時報』(1957年6月号)に掲載されたのを,改題加筆して『上田閑照集』(岩波書店)第三巻「場所」(2003年)の第二部に収めたもの。こうした思考の持続が「本の文化」をつくる。

「私たちは,「人間世界の内部」での自分のやりくりや自他の調整や物の所有などでは解決することのできない苦しい問題,すなわち死や愛欲や罪や負目や無常の問題に苦しめられることがある。これらの苦しみは,自分が自分であるその一番奥底の苦しみであり,この世界の内部ではまともに答えられない問題である。それは,この世界にあるということ自体が共に問題になってくるような問題だからである。それらの苦しみにおいて,この世界と,この世界にある自分が一度に問題化してくる。そのとき,どこかで感じられた「別世界」が意義を持ってくるであろう。」(2頁)

「別世界」への道は,例えばナルニア国物語に出て来るような,異世界に通じる衣装ダンスのようなものとしてあるわけではないだろうが,しかし,たしかにいまここにあるのだ,という。

異世界」が開かれるということは「この世界」にある「自己」がその根底から否定され飜転されて「別人」になるということ,それによって初めて「この世界」にある自己の抜き難い苦しみ,死や罪や愛欲の根から脱却しうる可能性が与えられることを意味する。したがって,別世界はさしあたって「この世界」における「自己」への全き「否定」としてのみ開かれるが,その否定のうちでどこからか吹いてくる別調の風が感じられるとき,新しい肯定が与えられてくる。・・・
別世界は自分でつくり出すことはできない。或る場所で与えられるものである。」(2-3頁)

事柄の深い意味においては,たしかに「別世界」を「自分でつくり出す」ことはできないのだろう。
しかし,与えられた「別世界」の構想を,政策的な要求に動かされてではなく,内的な召命に導かれて,この世に現実化しようとすること,そのようなことまでが,ここで否定されていると読み取る必要はないだろう。
引用文の文脈から離れるが,内的召命にもとづいて世直しを実行する者は,なんらかの仕方で「この世界」の否定を通じた「別世界」の経験を有しているのではないだろうか。
このような「別世界」を経験するには,そのための場を必要とするが,文化はそのような場を「仕掛け」として組みこんできた(7月21日の引用にある山口昌男氏の「暗闇と遭遇することができる仕掛け」という文言を参照)。
忙しすぎる現代においては,意図的にそうした場をつくり出すような工夫が必要ではないかと思う。大学も,いまや就活のための場でしかなくなりつつあるからには。