感覚を磨く

見田宗介現代日本の感覚と思想』講談社学術文庫,1995年


本書は,二部にわかれる。
第一部「現代日本の感覚変容─夢の時代と虚構の時代」は,1990年,東京都写真美術館の開館記念となるオープニング展「東京─都市の視線」のためのカタログ解説として書かれたものを原型とした論考である。
第二部「現代日本の思想の全景─夢よりも深い覚醒へ」は,1985年から翌年にかけて朝日新聞の論壇時評として書かれ,『白いお城と花咲く野原─現代日本の思想の全景』(朝日新聞社,1987年)に収録されたものである。本文庫は,48回分から28の主題を収めている。
現代のように変化の激しい社会において,社会学者の仕事がながく「現在」の仕事として認知され続けるのは,極めて難しいことだと思う。本書も,たしかに今となっては,時代を感じさせる。しかし,時代を感じさせるということは,まさにその時代を写し取った仕事であったということを示しているともいえるだろう。
また本書は,グローバル化も,あるいはインターネットの普及による情報革命も,まだその姿形がはっきりとは見えていない時期に書かれたにもかかわらず,とりわけ日本社会の進路に関する洞察において,今なお示唆的である。

「一九六〇年代の終わりに,当時は先端的な職業であったコピーライターのグループにインタビューをしたことがある。「他の商品よりほんとうに価値のある商品を,その価値のあるところを大衆に知らせるかたちで売りこむばあいと,ほんとうは他の商品と同じくらいの商品を,価値あるように見せかけて売りこむばあいと,コピーライターとしてどちらに生きがいを感じるか」という問いに,彼らはすべて,「あとのばあいです」と答えた。「無個性のものを個性あらしめるということですね。」一人がつけ加えていった。そういう時の彼らの言い方に,ある顕著なシニシズムがあった。」(34頁)

六〇年代というのは,まだ社会が消費社会化する以前の,古い社会の価値観が生き残っていた時代である。だから,消費社会化のフロント(前衛)たるコピーライターも,「シニシズム」を感じえた。ところが,時代は進行する。

「この話を,私は七〇年代に,その時代に若いコピーライターに思い出してしたことがある。その時彼は,「教科書どおりですね」と答えた。すでにこのように考えることがマニュアルになっているらしい。八〇年代になると,この考えは,「情報」による「付加価値」の創出というかたちで,ごく平常の経済原則となっている。もはやこのことを語る人の表情に,シニシズムの影はない。」(34頁)

一九六〇年代から七〇年代にかけて進行した消費社会化,あるいは情報社会化とよばれるものは,四五年の敗戦よりも,より深い次元における社会の変化をもたらしたように思う。
しかしこれは,嘆かわしいことばかりではない,と著者は言う。

「・・古典的な資本主義は・・過剰生産による周期的な恐慌の危機にさらされ,この危機を回避しようとすれば,「最終需要」の暴力的な創出による瀉血のように,軍備の拡大や帝国主義的な戦争にうったえる他はなかった。しかしこの「恐慌か戦争か」という矛盾を,現代の先進資本主義国は,古典的な社会主義者の思わなかった仕方でみごとにのりこえた。すなわち,情報による,欲望と市場の自己創出である。日本の高度資本主義が,こういう仕方で繁栄をつづけてきたことは,軍備の拡大や対外侵略という形で最終需要を創出する仕方よりも,はるかによいことであったと思う。」(35頁)

もちろん,これはことの一面である。
情報社会化の戦略は,構造的にニヒリズムを生み出すシステムであり(なぜなら,情報化は,実体のないところに価値をうみだすから),また最近の金融不安に示されるように,社会を高度に不安定化する。
重要なのは,さまざまな戦略が選び取られていく歴史のなかで,それぞれの戦略に対する感覚を磨くことであろう。
ところで,私たちがいま何ごとかを何ごとかとして感じる感覚は,時代の構造や変化と分かちがたく結びついている。それゆえ,社会や歴史の認識は,認識する自己の感覚への反省を伴うものでなければならない。時代によって変化する人間の感覚や思想の歴史を学ぶことは,今を認識するためにも不可欠なのである。

「人がひとつの思想を見出して共感し,ほんとうに自分の生を方向づけ,意味づけるような力として獲得するのは,ほとんど「身体的」といってもいいような感覚の基底において,この思想と呼応し共振することがあるからである。「論理として」人が思想を論証し/反証する時でさえ,その論証し反証すること,その激しさや執拗さや静かさ等々は,思想の言語という形式のずっと以前に,語れない共感/反感の地層から噴き上げてくるものであり,あるいはこの地層に居をおいて透明に冴えわたったりしているものである。」(218頁)

本書の「文庫版あとがき」の冒頭である。
思想というものの基底にある「身体的なもの」を指摘することばは,決して珍しいものではない。しかし,思想の体系ではなく身体の感覚こそが,この世界を生きるなかで磨いていかなければならないものだということを,この文章ほどにわかりやすく記したものは,たしかに珍しい。

「感覚が形成されるのは,経験からである。意識の生成にずっと先立つ時期からの,家族の内や外,仕事の中,恋愛や友愛の中,街頭やメディアの中で,あたりまえのことであるかのようにくりかえされる,経験の歴史。反対に想像力の外部からの突然のように襲い,それまでの自分の生の全体をばらばらに解体して去ってゆくような経験の歴史。これらの経験は,家族の関係や企業のシステム,恋愛と性の形式,都市やメディアの構造とそれらの変動をとおして個人に回帰してくるものである。・・」(219頁)

それぞれの関係(例えば,家族)やシステム(例えば,学校や職場)において生きられる経験,あるいは現実。これらは,統計データに表れるものであってさえ,そのデータを経験する私の感覚によって構造化される。
ところでこの感覚は,どのようにして磨くことができるのだろう。
例えば,自殺者30000人以上という統計データをみても,なにも感じることなく過ごすことのできた感覚というのは,一体どのようにして育てられてきたのだろうか。
これは,倫理や道徳の問題なのではない。倫理や道徳はある範囲を前提にしたところで成り立っているから。この前提(つまり歴史的文化的世界)を形成するのは,倫理や道徳以前の身体的なものであり,この身体的なものを歴史的な構造が規定する。
身体的な感覚を磨くには,この両者(身体的なものと歴史的文化的世界)の関係への洞察を,何らかの仕方で学んでいかなければならないのではないか。そして,そこに人文科学の意義もあるのではないか・・・
もちろんそれは,絶対に書物を通して学ばなければならない,というものではない。しかし,書物,あるいはテキストを通して学びうるものの可能性は,それほど小さなものではない。じっさい本書は,今なお,そのためのよき手ほどきの書であり続けている,と思う。