貨幣と人間(1)

岩井克人三浦雅士(聞き手)『資本主義から市民主義へ』新書館,2006年


いままで,経済に関する本は取り上げてこなかった。
苦手な分野で,何を取り上げるべきか思いつかなかったからだけれども,しかし,前回(10月2日)の末尾でもふれたように,このブログの主題である人間性というテーマにとって,経済という領域を考えることは不可欠なことだと思っている。
そこで,対談形式でわかりやすい本書を選んでみた。
岩井克人氏は,手元にある『貨幣論』という文庫本のカバーによると,1947年生まれ,東京大学経済学部を卒業,マサチューセッツ工科大学にて学位を取得し,アメリカの研究機関での勤務を経て,1989年から東京大学経済学部教授。『貨幣論』はサントリー学芸賞を受賞した。
聞き手の三浦雅士氏は,手元にある『主体の変容』という文庫本のカバーによると,1946年生まれ,雑誌『ユリイカ』や『現代思想』の編集長を務め,1981年より批評活動に専念,とある。
以下の議論は,第一章の「貨幣論」の中から。

「岩井:ぼくは・・生産や消費こそ本源的な経済活動であり,金融活動をそのたんなる派生と見なす・・伝統的な考え方こそ,経済の本質を見損なっていると考えています。なぜならば,実体経済の根源にまさにデリバティブがあるからです。それは,もちろん,「貨幣」のことです。貨幣とはまさに元祖デリバティブつまり「派生物」なんです。貨幣そのものにはなんの実体的な価値もない。それは実体的なモノを買うためのたんなる手段でしかないのです。貨幣をもつことは,実体的なモノを手に入れるための派生的な活動にすぎない。だが,いうまでもなく,その貨幣の存在によって,生産や消費といった実体的な経済活動が可能になっている。・・」(14頁)

労働・生産・消費,これら経済の実体的活動があって,そこから派生的な金融活動がある,と考える。これは,一般の人びとの常識的な考えといえるだろう。しかし,それは倒錯だ,と岩井氏はいう。そのことを理解する鍵が,貨幣である。

「岩井:・・ゲーテは紙幣,とりわけ不換紙幣をたんなる「派生的」な貨幣と見なしていたんですね。かつて貨幣は金や銀というそれ自体が充実した価値をもっていた。だが,重商主義者たちによる紙幣の導入がすべてを悪くしてしまった。紙幣とは本物の貨幣である金銀のたんなる代理にすぎない。その代理でしかない貨幣があたかも本物の貨幣のように流通してしまうことが,諸悪の根源だというのです。だけど,批判されるべきは,まさにこのような本物/代理,あるいは本源性/派生性という二分法です。じつは,金や銀もそれが貨幣として使われるようになったその瞬間から,モノとしての価値を上回る価値をもってしまったのです。貨幣とは,金や銀のかたちをもとうと,紙切れでつくられていようと,それをすべての人が貨幣として使うから貨幣として使われるという自己循環論法によってその価値が支えられているのです。」(19頁)

岩井氏によれば,このような貨幣の性質については,古典派経済学者以前の重商主義者が深い考察をしてきたという。重商主義者は,「地理的に離れた二つの土地の価値体系のあいだの差異性を利潤に転化する経済活動として遠隔地貿易をとらえており,まさに商人資本主義の原理を100パーセント理解していた」(24頁)。
岩井氏は,古典派経済学を,価値の源泉を労働に求める人間中心主義と特徴づけ,18世紀以降の産業資本主義の構造を反映するものであった,と考える。この古典派の人間中主義的な経済観は,人間の本来的活動=労働→価値→貨幣→取引,という順序で人間の経済活動を考える。しかしこれは,人類の歴史においてむしろ例外的なことであった。岩井氏の言葉を受けて,三浦氏は次のように述べている。

「三浦:・・産業資本主義の段階では,労働価値説でもおかしくなかった。しかし,それ以前の段階ではおかしかったわけですよ。もともと富というのは,自然発生的なものです。狩猟採集社会を考えればわかりますが,獣も魚も果実もみな自然に増殖してゆくものです。ヨーロッパ人は,香料諸島に船団を仕立ててわざわざ行くわけだけれども,現地人が胡椒を栽培しているわけではない。ギリシア神話で,イアソンがアルゴー船に乗って黄金の羊毛を求めて遠征するのとほとんど同じです。富はそういうものとして考えられていた。それが変形すると掠奪や戦争になる。しかし考えてみると,そのほうが人類の歴史のなかでは長かったでしょう。・・」(25頁)

岩井氏によれば,このような人類史の古くからある重商主義的な利潤獲得の原理としての資本主義の性質は,ポスト産業資本主義において再びあらわになってきた。かつて,異なる二つの土地の間における自然な差異性が,現代では情報化によって人為的に創出される。差異性が,利潤を生みだす源泉だからだ。たとえば,エコというマークがはいっているか否か,燃費性能の数値が勝っているか劣っているか。資本主義は,利潤を生みだすために,これら差異性の競争へと人びとを巻き込む。その舞台は,いまや地球規模の市場であり,さまざまな広告媒体がそれを彩る。
岩井氏によると,ポスト産業資本主義とは,利潤の機会をもとめて差異性を意識的に作りださねばならなくなった段階の資本主義であり,このような資本主義の動態によってグローバル化や高度情報化が結果として生じたのである。

「岩井:ここで強調したいのは,高度情報化もグローバル化も結果であって,原因ではないということです。産業資本主義的な利潤の創出機構を失った資本主義がそれらを要請したのであり,たとえば通信情報技術の発達が資本主義の変容をもたらしたわけではないということです。」(27頁)

この主張は,多くの社会学者や未来学者の見方(「情報通信技術の発達が資本主義の変容をもたらした」)とは異なるもので,いろいろと考えさせられる。その是非はともかく,資本主義とは何か,また,資本主義の中で動く人間とは何かを考えるのに,岩井氏の発言は極めて示唆あふれるものだと思う。
話をまとめていこう。
ポスト産業資本主義において再び明らかとなりつつある資本主義の本質的性格(利潤獲得のために差異性を求めて冒険的・投機的活動を行うこと)は,最初に述べた貨幣というものの性格による。

「岩井:・・貨幣をもつことは,それをいま使うか後に使うかという一種の投機活動をすることでもある。だから,共同体的な規制を離れた自由な経済活動の可能性とその経済活動を攪乱してしまう投機活動の可能性とは,貨幣経済の二面性なのです。・・」(32頁)

サブプライムローン問題に発する世界恐慌の不安の中で,投機的活動の是非について大きな問題となっている。アメリカにおいても,ウォール・ストリートの金融業界を守るために何故税金が使われなければならないのか,という声は強い。労働こそが価値を生みだすという人間中心主義的な労働倫理からする自然な声といえよう。
しかし,岩井氏によれば,そもそも貨幣というものに本質的に投機的な性質があるのだという。投機とは価格の変動を見越して行われる活動であり,いまだ実現していない未来を先取りする行為である。現実の中に未来を見るこの活動を,岩井氏と三浦氏は,「遊戯」と言い換える。

「岩井:貨幣という媒介をなくして,すべて計画で置きかえようというのが,社会主義の究極の目標でした。
三浦:その媒介というのは,人間のなかの投機性というか,もっと簡単に言うと遊戯性ですね。貨幣はゲームの性格をもっているということ。
岩井:遊戯というのは投機と同じことですからね。貨幣をもつということは遊戯そのものなんです。・・・・
・・・・・・
岩井:・・遊びというのは,いまここにおいて実用性のないことをやることです。そういう意味では,いま投機はわれわれの生きている経済をこれだけ不安定にしているんだけれど,同時にこの投機はけっして消してはいけない行為でもあるのです。われわれの経済,いや人間性の本質に根ざしている。そこを理解しないと。」(33頁)

経済の根底には,子どもの遊びに関する考察(9月30日,10月2日を参照)でも確認したような,「本当と嘘の循環」という根本構造があるように思われる。例えば貨幣が,実物そのものではないにもかかわらず,その価値を有すると「見なされる」ことに,その価値の基盤を有しているように。
この観測がどこまで正しいものかは定かではないが,いずれにせよ本書の対談は,まだまだ続く。興味を覚えた方は,是非,本書をとって頂きたい。難しいと思い込んでいる経済が,人間の生活の近くにあることが実感できるだろう。