経済と人間(2)

岩井克人『資本主義を語る』ちくま学芸文庫,1997年


一昨日に引き続き,岩井克人氏の一般向けの書物から。
人間は,いかに自分が経済に縁遠いと考えても,経済と無関係に生きることはできない。しかし,だからといって,すべての人間的世界を,経済をモデルに考える(理解する・構想する)こともできない。経済との関わりをどう考えるか,それは大きな問題だ。
本書の文脈とまったく重なるわけではないが,こうした関心にふれる箇所をひろいつつ考えてみたい。

「・・経済世界のなかで非効率性・非適応性があると,そこにつけ込む人間がかならず出てきます。非効率性の存在とは,より効率的な人間が利潤を生む絶好のチャンスなのです。非効率的な状況を逆用して,そこから利潤をえようとする意識的に考える人間がかならず出てくるわけです。つまり,環境にたいする適応が主体的におこなわれる可能性がある。・・
」(59頁)

非効率的なサービスしか提供されていない領域に,新しい効率的なサービスを提供することで,利潤を獲得する。
例えば,アパレル大手のユニクロ。百貨店に並ぶ商品ならば,ワン・シーズンに数回しか着ないカジュアル・シャツに数千円ものコストをかけねばならぬ非効率。しかも,せっかくの休みに時間を使って買いに出かける時間のコストも馬鹿にならぬ。(と思うのは,ファッションに関心のない人間だけに当てはまることかもしれないが。)スーパーに並ぶ商品ならば,安く商品が手に入るという効率性はあっても,ファッション性や品質に多くを期待できない。
このように,ある一定程度の満足度を有する商品を供給するための市場の非効率性が,ユニクロにとってはビジネス・チャンスとしてあった,ということだろう。
このような成功例を見ると,非効率的な部分を効率的なものに置きかえていくことで,世間の景気はよくなり,みなが幸福を享受できるようになると思われる。
しかし,そんなに単純なことなのか?

「・・もしすべての経済主体が「見えざる手」の原理で動いたらどうなるかというような思考実験をしてみる・・企業なら企業が,家計なら家計が全部利潤を最大化し,効用を最大化するというミクロ的なレベルで適応的な行動をしたらどうなるか。じつはその場合,経済世界においては,すべての経済主体が同時に合理的かつ利己的にじぶんの利潤や効用を追求していくと,システム全体の調和とは逆に,システム全体を自己破壊に向かわせるような不均衡累積過程を生みだしてしまうということを示すことができるのです。」(61頁)

岩井氏は,伝統的な経済学を批判する自身の『不均衡動学』の仕事を説明しつつ,このように述べる。この理論的な思考は何を意味しているのか。

「だから逆に,もし現実の経済がいま述べたようなかたちで不均衡累積的に崩壊していかずに,曲がりなりにもある程度の安定性をもったままいままで存続してきたのは,この経済のどこかに合理的な経済計算をしていない人間なり組織なり制度なりが存在しており,幸か不幸か,それらが「見えざる手」のはたらきを若干でも束縛しているからこそだという,逆説的な命題が生まれてくることになるわけです。・・・われわれの生きている経済とは・・すべてを経済的な利害計算の論理に還元してしまおうとする市場メカニズムと,歴史的な偶然や共同体的な慣習や文化的な制約といった非経済的な要因をたくさんひきずっているさまざまな人間や組織や制度との絡み合いでしか決定できないんだという思想が生まれてくることになるのです。」(61-62頁)

もちろんこれは,共同体的な慣習や文化的な制約なら何でも残すべきだという話とは違う。ここで言われていることは,「経済全体の動きを,合理的な人間の選択の問題に還元してしまう」(97頁)ことの不可能性である。
では,どうすれば経済の全体を捉えることができるのか?
経済の全体を決めるのは,経済的なものと非経済的なものとの絡み合いである,といわれている。
とすれば,経済との関わりを考えるということは,経済の外部を考えるということと共になされなければならない,ということではないだろうか。
これは他の領域にも適用できる考え方のモデルになるだろう。私たちは,あるフィールドを設定してしまうと,そのフィールドの外のことを考えなくなってしまいがちだ。しかし,たとえば政治の全体を考えるには,政治的なものと非政治的なもの(政治の外部)との絡み合いを考えなければならない。科学の全体を考えるには,科学的なものと非科学的なもの(科学の外部)との絡み合いを考えなければならない。
言うは易く,行うは難し,であるが。