国際政治という場

中西寛『国際政治とは何か 地球社会における人間と秩序』中公新書,2003年


日本人の性格はしばしば「島国根性」とよばれるが,それは自分の生きる日本列島という場が同時にまた世界(いわゆる一般的な国々の集まりとしての世界。後で引用するアレントの「世界」とは異なる)でもある,ということの自覚を欠いている,ということを意味するのだろう。
しかし,では,世界を知るとはどういうことか。国際政治学者・中西寛氏は,本書において,国際政治の歴史(第1章)と将来展望(結章)の間に,「安全保障の位相」(第2章),「政治経済の位相」(第3章),「価値意識の位相」(第4章)という章を配置して,重層するさまざまな場からなる国際政治の現場を整理する。
このような視点の設定が出て来る所以は,「あとがき」の次のような記述からうかがわれる。

「私が[恩師である]高坂[正堯]教授から教えられたことの一つは,政治をあくまで人間の営みとして捉えるという古典的な視線であり,私は本書を書くにあたってこの姿勢を自分なりに消化し,表現したいと考えたからである。」(280頁)

政治が「人間の営み」であることなど当然のことではないか,と思うかもしれないが,しかし,学問というものには理論や概念の精緻化が求められ,そうした作業はそれはそれで奥が深いために,そこに入りこむと人間そのものから離れていってしまうということがある。もちろん,それによって,人間を深く究明するということもあるのだが,ただ,どうしても「総合的に捉える」ということは難しくなりがちだ。

「国際政治を一人の人間として総体的に捉えたいという,知的細分化が進む今日ではアナクロと見なされるかもしれない希望を抱いたのもそのためである。」(280頁)

知的細分化という学問の現状の中で,次の文章に述べられたような中身は繰り返し語られてきたことではあるが,やはりあらためてかみしめておきたい事柄である。

「十九世紀から発達した社会科学や実証主義は,人間社会を客観的に観察し,さまざまな理論や歴史観を生みだしてきた。それはそれで重要な進歩である。しかし,ハンナ・アレントが行動主義について評したように,「厄介なのはそれが誤っているということではなく,それが正しいものになったということであり,それが実際に近代社会のある明白な傾向を概念化するのに最も可能性のある方法であるということ」なのである。社会科学や実証主義の方法・・・それは,人間の行動を統計や量,合理性といった枠の中にあてはめていき,個々の人間の創造性という側面を見落とす傾向をもつ。そして政治の本質は,あくまで断片的なさまざまな知識情報の後に来る判断であり,創造であると思う。」(280-281頁)

人間というものが置かれている重層的な場において,実証主義的な視点から捉えられる側面が確かに大きくはなっているということ,しかし,それだけでは捉えきれない場があり,特に「人間の営み」としての「政治」においてそれがいえる,ということだろう。
本書にはしばしば思想家の文章が引用されているが,事実に向かう視線の奥で,著者がいかなる理論的関心を働かせているのかがそこからうかがわれる。
「価値意識の位相」の章から一箇所だけ引用しておく。

「今日の世界において,異文化理解のみによってエスニック集団間の関係を安定化させることは難しい。まず異文化の深い理解には時間がかかるが,異文化の接触が突然に起きうる今日,それだけの余裕はもちにくい。のみならず,多数の異文化が一時に交じり合うような社会では,異文化理解はいっそう困難になる。現代では浅い理解にとどまっていても,異文化の共存が必要される時代なのである。」(257頁)

以上のように問題を設定した上で,この問題に対処するために著者は,文化やアイデンティティの捉え方を考え直す必要があるとして,次のように述べる。

「そこで重要になってくるのは,文化やアイデンティティに対する発送の転換ではないだろうか。・・・・
・・・・
すでに見たように,「文化」が貴重と見られるようになったのは十九世紀のヨーロッパ以降のことであった。そこでは,近代技術が人間と環境を絶え間なく変化させると同時に,伝統的な社会がもっていた世界認識が近代的な自己懐疑によって揺り動かされていた。特にドイツではもっぱら歴史や芸術に文化を求めたけれども,それは,急速に近代化するなかで揺さぶられている伝統的な世界観に代替しうるような,自己の存在意義を確認するアイデンティティの探究という性質をもっていたのである。・・・
しかし,こうした探究の方向そのものが,近代人の妄執なのかもしれない。人間がまず自己の対する問いかけから世界を理解しようとするのは,ハンナ・アレントが「世界疎外」と表現した近代人の懐疑の表れなのではないだろうか。アレントによれば,世界の意味づけを知ることをあきらめて近代人は自己だけは確実な存在であると信じて,自分とは何かという問い,すなわちアイデンティティの探究を通じて確実な世界を取り戻そうとする。しかしそれは,結局はむなしい試みでしかない。自己の内側をいくら探っても,結局は確実なものは存在しないからである。」(257-259頁)

自分の確実な存在理由・存在証明を求めて,文化やアイデンティティなるものがもてはやされる。それは,いわば虚像にすぎないのに,その虚像をめぐる「価値意識の位相」の葛藤や紛争は止むことがない。そこで,著者は,アイデンティティなる虚像との付きあい方について,次のように提言する。

「我々がアイデンティティと考えるものは,本来は他者との関係性によって自覚されるのである。・・アイデンティティは始めから実在する不変のものではなくて,世界の中に住む自分が他者と出会い,交わることで,新たに創造され,変化する。アイデンティティとは出発点ではなく,世界との交わりの終着点なのである。」(259頁)

著者の言う「世界」と,アレントの「世界」がどこまで重なるものか,これだけでは定かでないが,いずれにせよ,人間の生きる場,住む場というものの,拡がり,重なりに対する著者の深い自覚が,現状の「世界」の在り方への危機意識を導き,そこにアレントとの共振をみることができるように思われる。もちろん,共振は一致ではなく,両者の間にある懸隔は否定すべくもないのだが。
アレントについては近いうちに取り上げたいと思っている。