回帰する歴史

山口昌男『文化の詩学 I』岩波現代文庫,2002年(岩波書店,1983年)


歴史に対する反省は,現代思想における一つの焦点であると思う。いろんな角度から論じることができるが,昨日(8月30日)に引き続いて,本書のなかから,「I オクタビオ・パスと歴史の詩学」を取り上げたい。本章は,もともと1978年に英文で発表されたものである。
著者は,フーコー(現代ではフーコーをまるまる無批判に受け入れるというわけにはもちろんいかないだろうけれども)の歴史(主義)批判を,歴史研究の特質と対比させつつ次のように述べる。

「従来からのやり方に従う歴史家の仕事が,読者に,過去の文化や時代に属するもろもろの事物に通じさせ「再び慣れさせる」ところにあるのに対して,フーコーは,長い間にわたる研究・解釈・概念装置を通しての,過大の方向づけが,あまりにも透明にしてしまった人間・社会・文化といった現象を,「見慣れないもの」にしようとする。」(37頁)

こうしたフーコー的な歴史批判の契機を,著者は,メキシコの詩人オクタビオ・パスのなかにも見いだす。次の引用中の冒頭の引用は,パスからのものである。

「「近代西欧だけが歴史と全面的・熱狂的に同化し,人間を歴史的存在であるとさえ言いきるに至ったとすら言えよう。こうした同化は,他の文明が自らと人類について創り出した考えに対する,明らさまな無知と侮蔑に基づいている。」
オクタビオ・パスは,線的なモデルで構築された「歴史」だけが人間と過去とのつながりを保証するものではないという事実を強調しようとしているのである。人間と過去のつながりは・・さまざまの形での非連続なモデルを介しても確保することができるものである。さまざまな文化は,それぞれ独自な過去とのつながりの確保の仕方を発達させてきた。・・いわゆる第三世界の研究者が,劣等感に悩まずに,こうした文化に内在する過去の記憶装置を自らのものとしていたならば─詩・昔話・神話・劇・政治組織・シャーマニズムなどの仲介儀礼などをそのわずかの例として挙げることができよう─こうした世界は,つい最近までそのような技術を豊かに曳きずってきただけに,西欧型「歴史」を相対化するきっかけを掴み得たかも知れない。」(42頁)

「歴史」は,歴史主義的な客観性によってのみ成り立っているのではない。人間の生きる世界は,単なる事実によって成り立っているのではなく,そうして事実がもつ象徴的な意味から成り立っているからである。次の引用もパスの引用から始まる。

「「すべての民族のすべての歴史は象徴的である。私が言おうとしているのは,歴史,その事件,そして登場人物達は,もう一つの,匿された歴史を指し示しており,匿された現実の,目のあたりにすることができる指標である。」
・・・・
パスの言うテキストの象徴的側面は,たしかに歴史研究のもっともにが手としてきたところである。特に実証主義が,事実の数量化に向かっているとすれば,言語に対する一義的な意味の押しつけのなかに,「客観性」の保証を求める歴史研究者に,象徴に目を向けろと言ってもどだい無理な話である。」(48-49頁)

このように,歴史主義的・実証主義的な歴史研究と,象徴的な歴史世界の研究とは,相性が悪い。
とすれば,前者のみが支配的となった歴史叙述によって世界に君臨する自己像を描く欧米流の歴史主義と,それにならって自民族の存在意義を叙述する非欧米諸国における「国民の物語」は,後者の仕方で過去と結びつく仕方を弱めてしまうだろう。そして,そのことは,欧米のようには歴史主義的な仕方で自己確認をしにくい第三世界やアジア世界の諸国にとって,自らを貧しくしていく営みでしかないだろう。本書の叙述からは,著書のこのような思いが推測できる。
では,どのような仕方で歴史の豊かさを回復することができるのか。そこで,想像力が再評価されることになる。
同時期に書かれた「II オクタビオ・パスと文化記号論」で,著者はパスのイメージ論を取り上げる。

オクタビオ・パスは『夢と竪琴』のなかで「イメージ」という章を立てて,イメージの持つ仲介性について論じています。
彼は,我々が想像力を使って,現実または非現実の形姿を喚起すると説きます。・・・比較・暗喩・直喩・ことば遊び・パロノマシア(異なる言語に属する二語間の語形の類似)・象徴・寓意・神話,等々・・これらのさまざまの表現は一見したところ互いに異なるように見えますが,共通しているのは,語句や語句群の統辞論的統一を破壊しないで語の意味作用における重層性を保存するという共通の働きをします。・・」(84頁)

「語の意味作用における重層性」というところが重要である。
一義的な現実に対して,一つの事実(言葉)が重層的な意味を作りなすところに,人間の生きる世界の特質があるとするならば,歴史のイメージもそれによってあらたに再定義されることになる。一回的・線的な歴史というイメージではなく,人間的世界の構造に基づくところの,重層的な意味の回帰する歴史というイメージが現れてくることになる。