歴史と性格

山口昌男『文化の詩学 I』岩波現代文庫,2002年(岩波書店,1983年)


山口昌男氏の文章については,すでに7月27,28日に『文化と両義性』をとりあげた。
文化人類学の領域で山口氏が現在どのように評価されているのか,詳しくは知らない。私が学生の頃,大学の研究所(したがって,授業はもたない)にいる有名人で,名前はとうぜん知っていたのだが,注目を受ける人に対する理由のない反抗心で,何も読みもせずに過ごした。自分が学生になるよりも前に書かれていた文章を今になって読んでみて,それが自分の関心と重なることにはあらためて驚ろかされる。
以下は,「V 精神医学と人間科学の対話」という章から。

「・・歴史のなかには,いわゆるクロノロジカルな時間に対して,回帰的に繰り返し繰り返し表われるパターンがある。それを捉えるためには歴史の持っている祝祭としての性格を考えてみてはどうだろうか。その場合,歴史=祝祭においてネガティブな役割りを演じる人間が必ずいるわけなのですね。どちらかと言うと躁状態の人間で,記号論的ことばを使いますと<有徴>marked ですね。徴(しるし)を持っている,なんとなくうさんくさい。そして時代を挑発し活気づけ,クロノロジカルではない新しい時間を作り出す。そういう役割りを歴史のなかで演じて,最後は<犠牲の山羊(スケープ・ゴート)>となって祝祭を完成させる。ですから歴史における祝祭は,犠牲者を伴うわけで,祝祭には一方では笑いを伴った喜劇的側面を持つと同時に,死の影をもちらつかせるという二面性がある。」(199-200頁)

「回帰的に繰り返し繰り返し表われるパターン」,そうした歴史貫通的なものを設定することには,そうとう注意が必要だ,というのが,現在の人社系の学者の基本的な態度だと思う。
しかし,大切なことは,実体として歴史貫通的ではないとしても,歴史的世界の認識においては,しばしば先行する歴史的パターンに重ね合わせる形で現在を理解するという行為がなされ,そのような認識行為を通じて,歴史貫通的な意識が作り出されるということである。もっとも著者は,ここではそのことに触れてはいないが。
著者が論じているのは,現在の(当時の)精神病理学が,歴史において繰り返される「パターン」の人間的条件を提示しているのではないか,ということである。これは,本日記においてカテゴリー[human]で扱ってきた関心と通じる。
本章における著者の発想は,精神病理学者・中井久夫氏に拠っている。中井氏は,「もっとも遠くもっとも杳(かす)かな兆候をもっとも強烈に感じ,あたかもその事態が現前するがごとく恐怖し憧憬する」分裂気質(206頁)と,「「くやみ」と「とりかえしがつかない」という感情」をもつがゆえに,「この感情を否定し「とりかえしをつけよう」とする」執着気質(211-212頁)を対比し,それぞれを江戸時代における倫理の二極に対応させる。すなわち,分裂気質を<世直し>型に,執着気質を<立て直し>型に対応させる。

「・・中井[久夫]氏は江戸時代の二つ倫理の極性として<立て直し>型と<世直し>型が現われたことを指摘します。<立て直し>型は執着気質に,<世直し>型は分裂気質に対応する。例えば二宮尊徳は,要するに父親が破産させた家を地道な努力によって再生させようとする,失ったものを復興し立てなおそうとするタイプの人間である。日常生活を固めていくには執着気質は非常な努力を発揮するわけです。この倫理は「その裏面として「大変化」を恐怖し,カタストロフが現実に発生したときは,それが社会的変化であっても殆ど天災のごとくに受け取り,ふたたび同一の倫理に従った問題解決の努力を開始する」。つまりカタストロフが本当に起こったときには,新しい規範を作る能力がないため,取りのこされる傾向があり,これが<執着気質>の限界であるわけです。<ポスト・フェストゥム>すなわちあとの祭り的気質で,破局が見えず破局に対処し得ない。」(212頁)

これに対して,<世直し>型については,思想史研究者,藤田省三氏のものを引用しつつ,吉田松陰を例に説明する。

「松陰の精神史的意味に関する一考察」・・と題する論文のなかで,藤田氏は松陰を「すべての「制度的なもの」,「型」を備えたもの,「恒常的なもの」が崩壊し去った社会状態」の状況的特質を一身に具現した存在であったと述べています。氏によれば,松陰の「真面目な記録精神」において現われるように「転換期の矛盾」は「空疎と化した体系の「胸に響かない」状態に対する反発を含みながら,人間内部の原初的な「事実」としての感性が体系的なものの崩壊と共に独立して前面に出て来る」。この現象は・・精神の<前景体験>に<背景体験>が取って替わる状態であると言いなおすことができるかもしれません。こうしたヴォワイアン(幻視者)的とも言うべき松陰は,予見したものを自らの政治的パーフォーマンスによって実現したと言えましょう。」(213頁)

著者は,執着気質が高度経済成長期までは大きな力を持ち得たが,それ以降はネガティブなものとして作用しているのではないかと,問題点を指摘する。
本章で著者の言いたいことの中心点ではないが,現在の鬱病や自殺問題にまで通じる問題として,紹介しておきたい。