幸福論(1)

アラン『幸福論』(神谷幹夫訳)岩波文庫,1998年


今週はいろいろと忙しく,ブログを続ける難しさを感じました。
8月のように更新することはできなくなると思いますが,細く長く続けていきたいと考えていますので,ときどきのぞいてもらえるとうれしく思います。

さて,まとまったものを読む時間がとれないときの逃げのようですが,本書のように小さな文章の集まりからなるものにも,よい本はたくさんあります。こういう本を,例えば枕頭の書にすると,いろいろとものを考える助けになります。
尊敬する哲学研究者は,愛用する枕頭の書の特質として,知的刺激に満ちていながら,心の静穏さが乱されることがないということを挙げていました(「創文」No.488.2006年7月)。
単に知的なものは,しばしば心の静穏さをかき乱します。他方,安心をもたらすだけのものは,知的な興味に欠けます。(もちろん,どんな本でも,なんらかの形で両者の特質をもっているでしょうが。)
知的であるとは,もちろんいろんな意味があると思いますが,その中でもっとも重要なことは,自らを省みることができる能力ではないでしょうか。
静穏さが重要なのは,しばしば人間が熱狂のなかで自らを見失うからです。知性でさえ幻想を破壊することに熱狂して,しばしば自ら新しい幻想をうみだすことがあります。
そう考えると,枕頭の書に求められる知性と静穏さは,一つとなって意味をもつのかもしれません。このような意味で役立つ枕頭の書の一つが,アランの『幸福論』です。
本書は,実は,あまり「深い」本ではないかもしれません。(「深い」本の代表としては,例えばモンテーニュパスカルや,あるいはやはり聖書などを挙げたい。)
しかし,幻想に熱くなりやすい頭を冷ますのに,この本はよい助けになります。
何事につけくよくよとするときに,ぱらぱらと頁をめくってみては得るところの多い一冊。
冒頭の「モール・ランブラン婦人への献辞」から。

「・・気分の善し悪しはすべて,一時的なからだの出来事によるものだが,それをわれわれは異様に拡大して,そのことに神託のような意味を与えてしまう。そのような気分が最後に行き着くところが不幸である。ぼくが言うのは,重大な理由もないのに不幸な人たちのことだ。なぜなら,そういう人たちが不幸なのは自分が考えちがいをしているのだから。・・ガストン・マレルブがモルレーの副知事だった頃,ぼくに言ったことばを覚えているでしょう。「気ちがいは意地悪なものだ」と言ったのだ。いったい何度ぼくは,このことばを繰り返し言っただろう。いっさいを,まったくどうでもいいことまでも考慮していらいらすること,それこそが狂気の始まりであると思う。それはよく出来た,よく演じられた芝居気分ではあるが,表現に執着するあまり,いつも計画を台なしにしてしまう。それが意地悪だというのは,不幸を何としてでも伝えようとするからだ。その時,他の人びとの幸福を見ていらだつのは,あの連中はばか者で,盲目的な奴らだと判断するからだ。狂人は他人の考え方を変えさせることに無我夢中なのだ。」(5頁)

他の人の「幸福」にいらだち,自分が特別に不幸であると思うとき,すでにそこに狂気がはじまっているという洞察は,鋭く,また自らを省みさせられる。