指導者像の難しさ

プルタルコスプルタルコス英雄伝 上』(村川堅太郎編)ちくま文庫,1987年(筑摩書房,1966年)


あまり話題にしたくはないのだが,しばしばメディアで取り上げられる首相や知事の言動をみていると,リーダーをいかに育てるのかという課題は,私たちの社会をよりよくしていくための大きな宿題のような気がする。
Webcatで検索をしてみると,リーダーシップ論は日本において決して研究の盛んな領域ではないようだ。
例えば,「政治的リーダーシップ」「政治的リーダー」「政治的指導者」はいずれも 0件。
「政治家 リーダーシップ」は 12件。主要なものはみな90年代以降,つまりポスト冷戦期のものである。
「政治家 リーダー」は16件。こちらは,90年代以前のものもある。
「政治 リーダー」は38件。国政レベルのリーダー論は,90年代以降が目立つ。それ以前は,自治体や地域のリーダー論がある。
「政治 リーダーシップ」は43件。基本的に,傾向は上と同じ。
以上の数は,多いと言うべきか,少ないと言うべきか。
たとえば,「企業 リーダー」は53件。「企業 リーダーシップ」は44件。
書店にいくと,企業家(起業家)のリーダーシップ論は目立つのに,Webcatでの検索数があまり出ないのは,日本の大学図書館の収蔵図書をデータベースとするWebcat の性格のせいかもしれない。つまり,起業家のリーダーシップ論は,学術的な色彩が低いことがあるので,大学図書館にはいっていない可能性も高いということだ。
そこで,国立国会図書館の簡易検索で同じように調べてみたら,「政治 リーダシップ」が41件。「企業 リーダーシップ」が68件ある。やはり,政治よりも,ビジネスにおけるリーダーシップ論の方が盛んといえるようだ。
次に,英語文献と比較してみる。
「politics leadership」で簡易検索すると,797件。「政治 リーダーシップ」が43件だから,日本語文献数に対して,英語文献数は18.53倍。
ちなみに「democracy」は12300件。「民主主義」(「民主制」,「民主政」を含める)は917件である。こちらは英語文献数が13倍。
さらに,「nationalism」は7848件。「ナショナリズム」(「国民主義」3,「民族主義」122は含めない)は652件。こちらは英語文献数が12倍。
これは,日本の大学図書館の収蔵図書における比較だから,実際はもっと英語文献数の方が多いと考えられる。また,邦語文献には翻訳ものもあるから,それを差し引くと,日本人が書いた文献数はさらに少なくなるだろう。
いずれにせよ,政治における「リーダーシップ」論はやや少ないような気がするのだが,如何だろうか。
冒頭に掲げた『英雄伝』を,現代のリーダーシップ論として読む等といった安直なビジネス書のようなことを言いたいのではない。この問題については,「安直なビジネス書」以上のことさえ何をどう言えばよいのかわからないほど,無知な状態にありはしないか,ということを自問しておきたいのである。

「・・アテナイのように大きな「帝国支配」を握っている大衆には実にさまざまな感情が芽生えるのは当然であるが,ペリクレスただ一人が個々の問題を正しく処理する能力を備えていた。多くの場合に大衆の希望と恐怖を舵のように操り,大衆の気持が高ぶっている時はそれを鎮め,銷沈の時はそれを慰め励ました。このようにして,彼は弁論術がプラトン(『ファイドロス』271C)のいわゆる「人心収攬術」に他ならず,その最も大きな仕事は人間の性格と感情についての研究であることを例証しているのである。人間の性格と感情はいわば心の諸琴であって,特に細心の扱いと弾き方を要するのだ。ペリクレスがこのような勢力をもち得た原因は弁論だけの力ではなく,・・誰が見ても明らかなように贈賄にこれっぽちも動かされず,金銭[の誘惑]にうち克っていたこの人の生き方に伴う名声と信頼であった。すでに偉大であった国を最も偉大な最も豊かなものとし,自分自身も勢力の点では多くの王侯,僭主を凌ぎ,そのある者はこの人の息子たちを遺産相続人に指定する程であった。にもかかわらず彼は,自分の財産は父が遺してくれたものより一ドラクマたりとも殖やさなかったのである。」(283-4頁)

このような政治指導者が,現代に可能なのかどうか,よくわからない。ただ,人がこの世を生きるからには,何らかの形で組織は存在するし,長の立場に立つことを強いられるひとは少数であっても,多くの人がその長の判断によって運命に影響をうけるという構造も変わりなく存在するだろう。
たとえば日本国民は,自国の首相のみならず,アメリカの指導者が誰になるかによっても,大きな影響をうける。
どのような人物が選ばれるべきなのか,それを考えるための材料を,私たちはどこから手に入れることができるのだろうか。二つの国の指導者が選ばれる時期にふと考えさせられた。