不機嫌なとき

アラン『幸福論』(神谷幹夫訳)岩波文庫,1998年


バスを待つのがとても苦手だ。
予定の時刻をすぎてもバスがこない。あとどのくらい待てばバスはくるのか,考えても判らないことを考え,あぁ,バスなど待たなければよかった,別の路線のバスにすればよかった,などと,心の中でいろいろとつぶやいてしまう。
バスの時間を勘違いした時はなお悪い。ああ,なぜ時刻表を見間違えたのだろう,そもそもなぜこんなに不規則な時刻表になっているのだ,もっと判りやすいダイヤにすればいいのに・・・いっても仕方のない言葉が心のなかをかけめぐる。そういう自分を恥ずかしく思う気持ちがわいて,それを打ち消すように息をする。となりで待っている人にそのため息を聞かれてしまったのではないか,という恐れがわく・・・そういうふうにして,不機嫌にはまってしまう。
わかっているのに,どうにもかえられない。
9月13日,14日にも取り上げたアランは,「ほほ笑みたまえ」というプロポ(断章)でこんなふうに述べている。

「・・不機嫌になると,われわれは束縛され,窒息させられ,息の根がとめられてしまう。それはわれわれが悲しくなるような体調に合わせて自らを処し,その悲しみを維持するように自らを処するというただそれだけのことからだ。退屈している人には,退屈を維持するにふさわしいような座り方,立ち上がり方,話し方がある。いらいらしている人はまた独特の心の動かし方で自分を締めつけている。意気消沈した人は,からだの筋肉からできるかぎり力をぬいている・・・これでは何かをはじめることで,今まさに必要な元気を出すマッサージを自分でするどころではない。
気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく,姿勢を変えて,適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら,われわれの中で,運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。」(47-48頁)

でも,不機嫌になると,体を動かそうと思うことさえできなくなる。

「不機嫌という奴は,自分に自分の不機嫌を伝えるのだ。だから不機嫌が続いて行く。それを克服するだけの知恵がないので,われわれは礼儀正しさに救いを求め,ほほ笑む義務を自らに課すのである。・・」(48頁)

これも悪い癖なのだが,仕事に追い立てられているとき,ここを乗り切らなければ先はない,というふうに自らを追い込んでしまう。そうなると,仕事の坂道はますますいっそう険しくなり,不機嫌になったり,意気消沈ということになる。
不機嫌の穴からはい出すには,人と会うのが一番のようだ。面倒なように思っていても,人と会って話をすると,面倒だと思っていた気持ちも消えている。
最近,そういえば人とあって話をしていないなぁ,と反省してます。