象徴としての神話と言葉

カッシーラー『人間』宮城音彌訳,岩波書店,1953年


ドイツの新カント派系の哲学者として知られるエルンスト・カッシーラーについて,小さな文章を書く機会があったので,その関連で,『人間』を紹介したい。この本については,数ヶ月前(8月17日,18日)にもあつかったが,そこで取り上げたのは,第一編『人間とは何か』に限られていた。今日は,第二編『人間と文化』から紹介したい。
なお,本書は現在,岩波文庫に収められているが,手元にあるのは(旧字体の使われている)古い岩波現代叢書版。引用箇所を示すページ数が役立たないかもしれないので,段落番号(引用箇所は段落として数えない)を書いて紹介する。

人間は象徴的動物である。これが,カッシーラー哲学の基本テーゼだ。この基本テーゼをカッシーラーは,人間を自然科学的に捉えようとする科学の動向に対抗するものとして位置づけている。ただし,カッシーラーは,生物学的,心理学的な人間理解を否定しているのではない。それらとは異なるもう一つの道として,象徴的動物としての人間学(としての文化の哲学,あるいは象徴形式の哲学)の可能性を追究しようとしているのである。

「象徴形式の哲学の出発点となる前提は,人間の本性または「本質」に関する何らかの定義があるならば,この定義は,機能的なものであって実体的なものではないとしてのみ理解し得るということである。・・人間の顕著な特性,人間独特の性質は,人間の形而上学的または自然的な性質ではなく,人間の仕事である。「人類」の範囲を定義し,決定するのは,実にこの仕事であり,人間活動の組織である。」(96頁 第六章第6段落)

ここで人間の「仕事」とあるのは,原語では work のことであり,「「人類」」は “humanity”, 「人間活動の組織」は the system of human activities である(カッシーラーは英語でこの本を書いている)。翻訳というものは,どうしても原典のニュアンスを伝えきれないものなので,暫定的に意味を追いかけているのだということを意識しておくことが大切だ。
(かの難解なるジョイスを翻訳した柳瀬尚紀氏によれば,日本語そのものがうまく書けない翻訳者も多いとのことだが・・・いずれにせよ,翻訳者の文章を鵜呑みにしないという態度は重要だ。もちろんこれは,翻訳者の仕事をけなしたり,その価値を低く見積もることとは別のことである。ちなみに柳瀬氏は,棋士羽生善治名人との対談で次のように述べている。「翻訳というのは,日本人にとっては全く不可欠で,少なくとも日本の文化というものに対してどれほど貢献してきたか知れないんですよね。にもかかわらず,翻訳という作業は意外と文学畑というか文化畑では,あまりそれを認めようとしないといいますか,大事にしようとしないところがありますね。」(羽生善治柳瀬尚紀『対局する言葉』河出文庫,101頁)こうした事態は,日本語の文化世界に生きる者として,よくよく反省しなければならないことだと思っている。)
さて,上の引用に続いて,カッシーラーが人間活動の system として具体的に挙げるのが,「言語,神話,宗教,芸術,科学,歴史」である。本書第二編は,これらについて各章ごとに論究する構成となっているのだが,重要なことは,カッシーラーがこれらの諸領域のあいだに「統一」をみていることである。

「疑いもなく人間文化は,異なった線に沿い,異なった目的を追究するさまざまの活動に分けられている。もし我々がこれらの活動の結果─神話,宗教的儀式または信条の創造,芸術作品,科学的学説─を考察することに満足しているならば,それらを共通題目に帰して了うことは不可能であろう。しかし,哲学的綜合は異なった意味をもつ。この場合には,我々は,効果の統一ではなく,行為の統一を求めるのであり,生成物の統一ではなくて,創造過程の統一を求めるのである。もし「人間性」という言葉が何ものかを意味するならば,それは,種々な形式の間に多くの差異と対立が存在するにも拘わらず,すべてが共通の目的に向かって働いているということを意味する。」(99-100頁 第六章第11段落)

本書が出版されたのは,ナチズムで亡命を余儀なくされたカッシーラーが,米国に渡ってからの1944年のことである。「人間性」に対するこのようなカッシーラーの期待は,ナチズムと戦争という歴史的背景のもとで理解しなければならない。
ところで,歴史的背景において理解するとはどういうことだろうか。普段の生活の中では「人間はそもそも悪なるもので,戦争や差別をなくすことはできないのだ」などと言う人も珍しくはないかもしれない。しかし,同胞が捕らえられたり,息子が戦場へと送られたり,爆弾が愛着のある住み家に落ちたりするなかで,人間は悪だから,こうしたことが起こるのも無理はない,などと言うことができるだろうか。
カッシーラーの言うこと(「共通の目的に向かって働いている」)は一見とてもナイーブに思えるかもしれないが,背景を考えると,簡単にナイーブと言って済ますことはできないように思う。
それはさておき,とりわけ「共通の目的」という観点から,後続の章から拾い読みをしてみよう。
まずは,第七章「神話と宗教」から。

「人間文化の哲学は形而上学的及び神学的体系と同一の問題を取り扱うのではない。この場合に我々は神話的想像および宗教的思想の内容を探求するのではなくて,形式を探求するのである。」(103頁 第七章第3段落)

「形式」とは,形骸とは異なる。それは,人間の有する神話形成機能,広くいえば,シンボル活動として理解されている。
カッシーラーは,数々の人類学・民俗学・神話学の業績を引用しつつ,文化哲学の観点から,シンボルの形式,シンボルを生み出す人間の精神的機能,の解明を目指していく。
神話は,非合理的なもの,科学と対立するもののように見える。しかしながら,神話は人間精神の経験あるいは知覚のある側面を描くものであり,科学によって抹消されるものではない。

「神話が主として知覚するものは,客観的特性ではなくて相貌的特性(physiognomic characters)だということができる。自然は,経験的または科学的意味においては,「一般法則によって決定される限りに事物の存在」として定義できるが,このような「自然」は神話においては存在しないのである。」(108頁 第七章第8段落)

だから神話はでたらめだ,というのは科学の経験のみを真正なものとする科学主義的な態度である。科学主義は,象徴的動物としての人間の有する象徴機能が創造する多種多様な世界のうち,科学的認識のみを真理とする。そのために,そこにおける人間の象徴界は酷くやせ細ったものとなり,人間が現に生きているところの種々の象徴界(神話や芸術など)の間の関係,それらの統一を考えることができない。

「科学的思考のあらゆる努力は,この最初の思考[神話的思考]の痕跡を完全に抹消しようとする目的に向けられている。・・しかし,これは我々の相貌的経験そのものの素材が,破壊され消滅することを意味するものではない。それらは,客観的または宇宙論的意味をすべて失ったけれども,その人間学的価値は存続している。我々の人間世界において,それらを否定することはできないし,それらを無視することもできない。・・・・・これら相貌的性質は,完全には根絶せず,ただ自己だけの領域に極限されている。科学の一般的方法を特徴づけるのは,この主観的性質の制限である。科学は,それらが客観的領域に入り込むのを制限するが,その現実を完全に壊滅し去ることはできない。なぜならば,人間的経験の各側面が現実的たることを要求しているからである。」(109頁 第七章第8段落)

次に,第八章「言語」から。

「・・言語間の真の差異は,音声とか記号とかの差異ではなくて,「世界の見方」のちがいである。言語は,単に単語の機械的な集合ではない。・・これ[言語]を分離したものとして取り扱うことは,「下手な科学的分析による死んだ生成物にすぎない」。言語は,エルゴン(作品)としてよりも,むしろエネルゲイア(活動)とみなされねばならぬ。それは既成のものではなく,連続的な過程である。それは思想を表現するために,分節した音声を利用しようする,たえずくりかえして来た人間精神の活動である。」(170-1頁 第八章第二節第4段落)

以上は,フンボルトという言語学者の説を紹介するものなのだが,ここでもカッシーラーは,神話論において神話的機能(神話をつくり出す象徴活動)を問題としたように,言語の活動に照明を当てる。このような活動や機能に注目するのは,諸文化の統一を視野に入れるからである。しかし,統一の前に,まずは差異と対立が確認される。

「あらゆるシンボル[象徴]形態の,最高の任務,正に唯一の任務は,人々を結合することである。しかし,それらの,いずれも,同時に人間を分割し分離しないでは統一をもたらすことはできない。こうして,文化の調和を確保しようとする企てるものが,最も深い不和と分離の源泉となる。これが大きい二律背反であり,宗教生活の弁証法である。同じ弁証法が言葉の中にも現れる。言葉がなくては,人々の間の共同生活はないであろう。しかし,言語の差異以上に,このような共同に対して重大な障害を与えるものはない。」(182頁 第八章第三節第2段落)

では,どのような形で言語の統一的理解が可能となるのだろうか。

「・・言語の真の統一は・・実体的なものではありえない。それは,むしろ機能的統一として定義されねばならぬ。」(182-3頁 第八章第三節第3段落)

もしも,言語が現実の模写を主たる機能とするならば,現実により近い模写をする言語が適切な言語とみなされる。しかし,言語は,単なる模写の再生機能ではなく,「生産的で構成的な機能」として見なければならない。そして,この能動的機能として言語を理解することによって,諸言語の差異を超えた,象徴を生み出す言語活動の意義が明らかになってくるのである。
極めて興味深いことに,カッシーラーはこの言語活動の意義を明らかにするために,ヘレン・ケラーなど言語発達の異常例を紹介するのだが,実は,これらの例は,本ブログでも何度か紹介している(9月15日,8月14日,8月3日,8月2日,7月21日)。
象徴やメタファー(隠喩)というものが,人間的な世界をつくり出す。神話形式や言語形式という精神の能動的機能が,人間が共に生きる世界をつくり出すのである。カッシーラーは,このような人間の能動的な象徴機能によって,神話や言語などのさまざまな文化的創造物を統合的に統合する道を探究する。
翻ってみれば,この観点から,象徴的機能の統合的な目的に合致しないような神話的創造物(ナチズムの「20世紀の神話」)や言語的創造物(全体主義イデオロギー)は,カッシーラーにおいて,暗黙のうちに批判されることになるのである。