都会と精神,および発達障害

ジンメル「大都会と精神生活」,『ジンメル・エセー集』(川村二郎編訳)平凡社ライブラリー,1999年


一昨日に引き続き,ジンメルの1913年(第一次世界大戦の直前!)のエセーを紹介する。
ところで,ジンメルという社会学者,十分に説明していないことに気が付いた。
1858年にドイツ(当時はプロイセン)の首都,ベルリンに生まれたユダヤ系知識人。草創期の社会学者とも,生の哲学者とも,特徴づけられる。認識論や美学,宗教論や社会心理学など,現代の大学の学科や専攻の名前では覆いきれないほど,その知的活動の領域が広かった。逆に,その領域が広すぎたためか,いずれの分野においてもマージナル(周縁的)な存在とみなされた。(以上の紹介は主として,菅野仁『ジンメル・つながりの哲学』NHKブックス,2003年,による。)
ジンメルは,ユダヤ系のため,当時のドイツではなかなか正教授の地位につけず,ながらく私講師という不安定な身分でいた。社会的にも,学問的にも,そして学界的にもマージナルな存在であったようだ。
日本では,なぜかゲオルク・ジンメルについての研究は西高東低。西日本の大学で学ぶ人の方が,ジンメルについての話をきく機会が多いだろう。
さて,上記のエセーの冒頭,ジンメルは次のように述べる。

「近代生活の深刻な問題のかずかずは,優位に立つ社会,歴史の遺産,外面的な文化,生活技術に対抗して,個人が自分の存在の自立性と独自性を保とうとする要求から湧き出ている。」(173頁)

「近代生活」という訳語をやや広げて,「現代の生活」という意味で理解してよい文章だと思う。
「優位に立つ社会」以下の表現も分かり難いが,要するに,社会や歴史や文化や技術が個人よりも優位な立場に立つようになった,だから,それに対抗して,個人の側から自立性や独自性を要求するようになっている,そこから現代社会の問題が生じている,ということだろう。
社会や文化などの超個人的なものと個人との葛藤,ここに現代の問題の根っこがある,これがジンメルの問題提起の核心である。
では,超個人的なものとしての大都会は,個人にどんな圧迫を加えるのか。そして,個人はそれにどのように対抗しているのか。

「大都会の中での個人のタイプを支える心理の基盤は,外と内の印象がめまぐるしく,しかもたえまなく移り変わることにもとづく,精神生活の昂進である。」(174頁)

やや話がそれるかもしれないが,現代の大学生がもっとも気を遣って避けているのはKY(空気が読めない)だと,とあるテレビ番組で報じていたことがあった。知り合いの大学教師も,友達との付きあいぐらいのことで悩む大学生が多いとこぼしていた。
しかし,現代の「めまぐるしく,しかもたえまなく移り変わる」社会を支える情報環境の中で高校時代や大学時代を送っていたら,自分も友達づきあいで悩んでいたかもしれない,と思う。そこで,何度か神経がすり減って落ち込む経験を通して,新しい情報環境に適応した,今とはやや異なる生活スキル・他者との関係の持ち方を発達させることになっただろう,などと想像する。
いずれにせよ,大都会の活発な刺戟が人間の精神に与える影響は,現代では当たり前になりすぎていて,なかなか自覚できなくなっているかもしれない。

「小さな町の精神生活では,どちらかといえば,情緒や感情の順応した感覚が優先しているのだが,それに対して大都会の精神生活の性格が知的である・・・感情に順応した関係は,心の無意識の層に根ざしていて,ゆったりとバランスを保って持続する慣習の世界で,一番早く成長する。それに対して・・理知は人間の内部の能力のうちでも,一番適応する力に富んでいる。」(175頁)

大都会での生活を守るためには,理知が必要とされる。他方,大都会は貨幣経済の座でもあった。大都会は,貨幣経済と理知の支配を広める。そして,貨幣経済と理知の支配は,「世界を計算問題に変え」る(179頁)。

「・・大都会の生活が強制する,時間厳守,計算,厳密性といったものは,貨幣経済や理知本位の大都会の生活と密接な関係があるというばかりではなく,生の内容をその色に染め,非合理で本能的で自立心の強い特性や衝動をしめだすのに,一役買うことになる。」(181頁)

またも話がそれるが,このブログでも取り上げたことのある「発達障害」という概念も(例えば,8月11日を参照),もしかすると,資本主義の高度化が人間の規律化をいっそう進めようとしていることの現れではないか,と思うことがある。
昔ならば,「少し変わった子ども」というので済んでいたものが,現代社会の要求する過剰とも言える規律化のもとで,「障害」として表象化される。ここで重要なのは,「現代社会の要求する」という場合,具体的に要求するのは,親であるということだ。子どもの将来を心配する親は,自分の子どもを他の子どもと同じようにしたい,と願う。また,子育ての責任の一切が親に負わされるような社会の中で,「普通でない」子の面倒を親が負いきれなくなっているという事情もあろう。こうした中で,子どもの「普通でない」行動の特徴的パターンが目立つようになったのではないだろうか。
もちろん,「発達障害」なる概念は社会によって構築されたものにすぎず,実体がないなどと言いたいのではない。「障害」と呼ばれるものの背後には,それと特定される行動の特徴があるのは間違いないと思う。ただ,それを「障害」や「症状」と概念化するのは,まずもって社会の側の都合があるのではないか,ということを,上では確認しておきたかったのである。
さらに,誤解を避けるためにもう一つつけ加えると,社会的な都合が大きいとしても,社会が変わるのを待つにもいかず,やはり個人(親子)の側がそれに対応していかなければならない,ということだ。ただ,個人が対応するにはあまりに困難が多い。さいわい,2006年に学校教育法が改正され,2007年4月から特別支援学級が実施されているのだが,態勢はまだまだ十分でないところが多いと耳にする。
きりがないので,この話題は切り上げることにするが,あえて記したのは,この問題の背景にも,やはりジンメルのエセーの内容にかかわることがあるよう気がしたからである。
社会の変化に対して,個人が自らのあり方を変化させて,適応をはかっていく。そこで,当然,個人の精神生活に大きな負担がかかり,さまざまな問題を惹き起こすことになる。
このエセーでは,都市化という変化が人間の精神にいかに影響をあたえているかが,ジンメルの職人芸で分析されるのである。
さてジンメルは,大都会に固有の心の現象として,「投げやり」(181頁)を挙げている。「投げやり」とは「さまざまな物の差異に対して感覚が鈍ること」(182頁)なのだが,それは,大都会の環境によってもたらされる。

「[大都会の変化の激しい生活は]・・神経をズタズタに引き裂くので,その結果神経はその最後のなけなしの力さえも放出してしまい,同じ環境にとどまる限り,新しい力を貯える余裕はもう持てない。新しい刺戟に直面して,それに見合ったエネルギーで対応することがもうできないという場合,生じてくるのがほかでもない投げやりな態度で,大都会の子供なら誰でも,変化のない落ち着いた環境にいる子供たちに比べ,早々とそうした態度を見せているのである。」(182頁)

差異への無反応としての投げやりは,自分の人格に対しても向かう。自分に価値があるとは思えなくなった人間による精一杯の「自己保持」のための態度が,「控え目」であり,「無関心」,あるいは「反感」である。これらの感覚は,道徳的に非難されるべきものではない。それらは,「距離を作りだし回避を可能にする」(186頁)ことによって,大都会における生活を可能とする態度なのである。
しかし,このような社交関係が主流になればなるほど,人間は自分が独自なものでありたいという欲求を強くさせる。なぜなら,大都会に生きる個人は,貨幣経済と分業,また距離をおいた社交により,安楽を手に入れる一方で,自己の独自性を駆逐されるから。

「・・大都会は,すべての個人的な要素を超えて生育する・・文化の本場である。・・生活は個人にとって,ある面では,この上もなく安楽になる。・・別の面ではしかし,生活はいよいよ,本来個人的な色調と独自性を駆逐する,こうした非個人的な内容と提供物でもって組み立てられるようになる。その結果,この最も個人的なものの救出のためには,極度に特色を際立たせる必要が生ずる。自分一己のためであれ,ただ声を聞いてもらえることだけが目的でも,特色を誇張しなくてはならないのだ。客体の文化の栄養過多が,個人の栄養欠乏症を惹き起こす。」(197-198頁)

1950年代以降,この個人の栄養欠乏症を補うために世界に広まった言葉が,E.H.エリクソンの「アイデンティティ」だったように思う。
しかし,このような言葉がつくられても,20世紀の初頭にジンメルが分析した社会の構造それ自体が変わるわけではない。つまり,個人の独自性を駆逐する社会の中で,独自性を追求する欲望がますます肥大化する,そのような社会の構造に変化はない。
ジンメルは,社会のあり方と,人間の精神のあり方を,つなげて考えていた。しかし今では,社会のあり方を考える人の大部分は,精神のあり方を論じることをあまりしないように思われる。精神のあり方を論じる人の多くも,社会のあり方そのものを論じることはあまりないように思う。
逆に言えば,ジンメルは,「古臭い」のだ。社会構造(外部)と人格や魂(内部)の関係というジンメルの議論の枠組みは,現代ではあまりはやらない。
その理由はいろいろとあるのだろうが,私個人は,こうした古臭いスタイルのもつ意義というものを,やはり受け継いでいくべきでないかと考えている。