廃墟にみえるもの

ジンメル「廃墟」,『ジンメル・エセー集』(川村二郎編訳)平凡社ライブラリー,1999年


拘束や締切のある仕事がつづき,なかなか日記を更新できませんでした。
師走の12月は,昔も今も,たしかに走るような忙しさ。年明けの2ヶ月もそれはかわらず,3月になってようやく少し余裕のようなものが出て来る,というのが,最近の大学教師の実感かと思います。
それでも会社勤めより時間は自由だし,午前様が続くわけではないだろう,と言われると,返す言葉もありませんが・・・
それはともかく,上にも述べた仕事の都合で年内から年明け1月にかけては更新頻度が確実に落ちそうです。

さて,上の本について。
ジンメルについては,9月18日,19日に,ちくま学芸文庫の『ジンメル・コレクション』より,二つのエセー「取っ手」(1905)と「橋と扉」(1909)を扱った。今日は,平凡社ライブラリーの『ジンメル・エセー集』より上記の「廃墟」(1907)を紹介したい。
(なお,翻訳としては,白水社版『ジンメル著作集』第七巻「文化の哲学」に収められた円子修平訳もある。)
「廃墟」は,あまり身近にあるものではないが,さまざまなメディアを通して,私たちの想像界に場所を占めているのではないだろうか。
個人的には,宮崎駿の『風の谷のナウシカ』が廃墟のイメージの元をつくっている。高校生のころ友人から借りて読んでいた『アニメージュ』の中の,あのイメージだ。1984年の劇場版を見たのは,だいぶ後のことだと思う。
60年代・70年代の左翼急進主義の終末論的世界観が,80年代にアニメという形で虚構的に反復し,それが90年代のカルトにおいて現実化した,という話をしていたのは,社会学者の誰だったろう?
いずれにせよ,多くの人が廃墟に魅せられるのは,現実的な廃墟の物それ自体ではなく,その物がたどってきた過去から未来にかけての時間を想像することによるのだろう。

「・・建築の崩落が意味するのは,あからさまな自然の力が,人工物を支配し始めることにほかならないからである。建築が表現していた自然と精神との等式に,自然が有利になるような狂いが生ずる。この狂いが,一種宇宙的な悲劇にまで到り着くので,この悲劇性ゆえにすべての廃墟は,われわれに哀愁のかげりを感じ取らせるのである。この時崩落は,自然の復讐という印象を与えるのだ。精神が,自分の思い通りに造りなすことでもって,自然に加える陵辱行為への復讐である。」(10頁)

ジンメルは,廃墟において自然と精神とのダイナミズム,自然の営みに巻き込まれる精神をみている。
たしかに,一方において精神は自然を支配し,その限りにおいて自然の素材は精神の自由に従う。

「人類の歴史全体のプロセスは,精神が,自分の外部に,さらにある意味では自分の内部にも見出す自然を,ゆっくりと時間をかけて押えこみ,支配下に置くプロセスにひとしい。」(11頁)

しかし,精神による人工物はいずれ崩壊する。建築の崩落とは,精神の自然支配のプロセスにおいてつくり上げられた精神と自然の結合形式の破壊であり,それは,先の引用にあるように,自然による精神に対する復讐,あるいは自然の敵意の現れ,のようにさえみえる。
ただし,廃墟が示すのは,そうした復讐や敵意だけではない。

「・・建築における廃墟はしかし,次のようなことを意味している。つまり芸術作品の,消えてしまったりこぼたれたりした所に,他の,とはつまり自然のエネルギーと形が後を追ってはびこり,かくして,廃墟のうちでまだ生きている芸術と,すでに生きている自然とから,新しい全体,独特の統一が生まれる,ということである。」(12頁)

芸術とは,精神が自然の素材を用いて創り上げる作品である。それに対して,廃墟は,精神が意図してつくりあげるものではない。それは,精神的作品に対する自然の作用であり,意志が働かないという意味において,偶然の作用である。それにもかかわらず,廃墟は一種の統一的形式をなす。

「・・廃墟の魅力とは,人工がついには自然の産物のように感受されるということである。風雨にさらし,浸食し,崩落し,植物を生育させて,山の形態を定めるのと同じエネルギーが,廃墟においても力強く働いたということになる。」(14頁)

精神のエネルギーが造る建築,自然のエネルギーが働く廃墟。精神が自然を素材としてつくられる芸術,自然が芸術を素材としてつくられる廃墟。
後者は,前者の序階を転倒させる。自然の提供するものが最下層で,その上に,材料,半製品,作品がおかれる,この精神の序階が,廃墟においては逆転する。
精神の提供したものが最下層となり,徐々に自然の作用が強まって,美的な廃墟が上位にくる。
ここでは,自然が芸術家である。
例えば,金属や大理石に生じる青錆。この,自然の作用を通して,人工物,つまり精神の形式は破壊され,自然へと回帰してゆく。

「自然のエネルギーの働きによる精神の形式の破壊。あの類型的な序階の転倒。それが,ゲーテのいわゆる「よき母」なる自然への回帰として受け取られるということ。これが第二の[廃墟の]魅力である。」(16頁)

さらに廃墟は,人を引きつけ,平安の気分にさえ浸す。
それは,自然への回帰ということからも解釈できるが,ジンメルはさらにもう一つの解釈を提示する。

「・・さながら聖なる魅惑の圏のように廃墟を包んでいる,深い安らぎは,以下に述べるような事の経緯から生じている。すなわち,すべての存在の形を決定している隠微な敵対関係・・・が,この主題[廃墟のこと]にあっては,他の場合同様,バランスのとれた和解に導かれるわけではなくて,一方が優位に立ち他方が無に帰するのではあるけれども,しかも,それにもかかわらず,ここには形の安定した,おだやかに静止した形象が提示されている。廃墟の美的な価値は,釣り合いの取りようもないもの,一人相撲でもがいている魂の永遠の転変を,満ち足りた形,くっきりと縁取られた芸術作品の形と結びつけた所にある。」(21-22頁)

自然と精神の抗争は,建築とその崩壊としての廃墟においてのみならず,魂においても闘われている。ジンメルは,一方では,この魂の闘争は止むことなく続くとみるのだが,他方では,この闘争は「廃墟」において一つの安定した形式を見いだし,そこに魂は平安を感じると解釈する。
ジンメルのエセーを特徴づけるのは,みることの鋭さである。それは,たしかにみることだけでしかないのかもしれない。しかしながら,私たちの生は何をみるかにかかっている,とも言える。
もちろんこの「みる」ことは,視覚的な「見る」に限定されるものではない。