反西洋思想(2)

I・ブルマ&A・マルガリート『反西洋思想』(堀田江里訳)新潮新書,2006年


11月12日に引き続いて,本書から。
前回は,日本人にも比較的わかりやすい「反西洋思想」の例を取り上げた。
今日は,わかりにくいものを取り上げる。第4章の「神の怒り」からである。

「西洋に対する宣戦布告はこれまで,ロシア魂,ドイツ民族,国家神道共産主義イスラム教などの名の下になされてきた。しかし,特定の国や民族のために戦う者と,何らかの宗教的,政治的信条のために戦う者との間には,大きな違いがある。前者は自らを「選ばれし者」と信じて,部外者を除外しようとする。後者はしばしば普遍的な救済を主張する。」(162頁)

本章で扱われるのは,この後者であり,その現代における代表がある種のイスラム主義である。
彼らの反西洋思想の核心にあるのは,「偶像崇拝をする未開の文明」である。
偶像だらけの日本では,偶像崇拝が罪だ,という感覚自体がなかなか理解できない。その上,西洋が偶像崇拝するとはどういうことか。これを理解するには,イスラムの政治宗教関係を理解しておく必要がある。

偶像崇拝という問題は,この世の権力者が自らのために政治的忠誠を求め,人が神に負うべき領域にまで踏み込んできた場合に発生する。」(167頁)

例えば,ローマ帝国における皇帝崇拝などの事例を考えればよいか。日本人ならば,戦前の「国体」を思い浮かべることもできよう。

イスラム主義者は政治の現実を,神学的文脈からも捉えている。そのため世俗的な政府を持つイスラム国家は,急進的なイスラム主義者から「偶像崇拝(tajhil)」との非難を浴びる。そうした告発は宗教的なものとして始まるものの,ただちに政治運動に転化していく。その場合の敵は,イスラム世界内にはびこる偶像崇拝者の回し者たち—大抵は権力者である—と,彼らを背後で操るオペレーター,すなわち偶像崇拝する西洋だ。」(167-168頁)

このような政治的シンボル化=政治的現実の構成は,言葉というものがいかに人間世界に影響を与えるかを教える。
偶像崇拝と並んで,「宗教上の無知」を「ジャ−ヒリーヤ(jahiliyya)」という。これは本来,ムハンマドの啓示以前の真の神を知らないアラブ人の無知を指す言葉であったという。ところが,偉大なイスラム学者により,「ジャーヒリーヤ」は「無知」ではなく,「野蛮」と訳されるようになった。これにより,イスラムと「野蛮」の対立が先鋭化し,善悪二元論的に世界は理解されるようになり,聖戦があおられるようになった。
もちろん,レーガン大統領がソヴィエトを指して「悪の帝国」とよび,ブッシュ大統領北朝鮮,イラン,イラクを「悪の枢軸」とよんだときにも,このような二元論的な言語が使用されたわけだが,一部のイスラミストの宗教的宇宙論における二元論的言語は,それ以上に深く宗教的世界観の中に根付いているという。

「オクシデンタリストにとって,西洋とは物質を崇拝する文明で,物質主義がその宗教だ。そしてマニ教[古代の善悪二元論の宗教]において,物質は悪とされる。物質という誤った神を崇拝することによって西洋は「悪」の領域になった。そのうえ,「善」の領域を浸食して,その毒をまき散らしている。1998年にオサマ・ビン・ラディン」が,すべてのイスラム教徒に「サタンの米軍と彼らと同盟を結んだ悪魔の支持者」との聖戦を戦うように呼びかけたのは,こうした考え方の故だった。宗教的オクシデンタリストにおいて,西洋との闘争は単なる政治的争いではなく,マニ教的な宇宙のドラマなのだ。」(170頁)

注意して欲しいことは,このような二元論は,キリスト教にせよ,イスラム教にせよ,本来の思想ではないということだ。(ユダヤ教キリスト教イスラム教がそれぞれの仕方で聖典とする)「創世記」に書かれた神は,この大地を創造し,それを善いものとみなした。物質を「悪」とする考え方は,そこにはない。
善悪二元論が,思想体系において本来は否定されているにもかかわらず,実際には生き残るのはなぜか。
現実に存在する悪と,慈悲深い神への信仰,これらを一つにまとめて理解することの困難さ。特に,日常生活を生きていて出会ったり,自らの心の中に感じたりする邪悪の現実性。これらを克服しなければならないという思いが,二元論的な枠組みへと人々を引きつけるのだろう。

「肉体とは本質的に不完全で,堕落する傾向にある─。こうした考え方は,キリスト教イスラム教の双方に影響を与え続けた。人間の肉体は性欲によって支配されており,道徳的堕落に傾きがちである。肉体は神にふさわしくないばかりでなく,人間にとってすらふさわしくない。自らの内面に宿る神性と魂によって,人間は物質的存在から引き上げられる。・・」(173頁)

イスラムの反西洋思想だけではない。ヒンドゥー原理主義も,戦前日本の神道主義者も,西洋を物質的(したがって悪)と決めつけ,そこからの救済を唱えた。それを踏まえた上で,現代の急進的イスラムが進めている,「野蛮」なる「ジャーヒリーヤ」に対する二元論的闘争に戻ろう。本書は,このような戦いを進めるにあたって影響をもった三人の人物について記述する。革命的イスラムの思想に大きな影響を与えたイランのサイード・ムハマド・タレニカ,エジプトの「ムスリム同砲団」活動家サイード・クトゥーブ,パキスタンのイデオローグ,アブララ・マウドゥディ。

「彼らは,それぞれ,異なるイスラムの伝統・・と異なる国・・の出身にもかかわらず,似たような世界観を共有していた。三人とも皆,西洋を「新ジャーヒリーヤ」の源泉,偶像崇拝の温床,最低の存在形態と捉え,それはこの世から根絶されるべきだという見解を示したのである。」(193頁)

注意して欲しいが,以上は急進的イスラムの反西洋思想イデオローグの説明であって,イスラムのすべてではない。
著者らは,反西洋思想にまではいたらないが,イスラム教の立場から西洋植民地主義を批判する穏健な立場をも紹介している。パキスタンムハンマド・イクバル(1877-1938)である。
反西洋主義の急進イスラムとイクバルとの違いは何か。

「・・イクバルは,西洋を非人間化しなかった。イスラム教の中に見いだした「神の単一性」を,イクバルは排他的理想とは捉えなかった。「人種や民族の偶像に別れを告げ,人格をもつ人間としてお互いと接するのであれば,イスラム教徒に限らず,すべての人間が地上における神の王国を運命づけられている」。イクバルにとってイスラム教は,「神の単一性」を主張し自己を開発するのに最適な方法ではあった。しかし他の方法の存在も認めたし,それが間違った方法であったとしても,それに頼る者を人間以下の動物とみなしたりはしなかった。」(196-197頁)

急進的イスラムの立場からは,イスラム共同体の外側はみな敵である。その敵を特徴づける言葉が,野蛮なる無知「ジャーヒリーヤ」,つまり「偶像崇拝」である。
しかし,「偶像崇拝」を禁ずる思想を否定すれば問題が解決するというわけではない。
最後に,「偶像崇拝」について考えるヒントとして,本書の著者の一人,A.マルガリータが,M.ハルバータルと執筆した『偶像崇拝』(大平章訳,法政大学出版局,2007年)の訳者解説を引用しておきたい。

「つまり,偶像崇拝は昔の,原始的な種族だけに見られる信仰形態ではなく,物質文明やテクノロジーを絶対的なものとして無意識に崇拝している現代人にも当てはまる信仰形態なのである。偶像崇拝の禁止はそうした錯誤や錯覚に陥っている人間に警鐘を鳴らす強力な手段にもなりうる。」(『偶像崇拝』,405頁)