子どもの本

ぶん:サリー・ウィットマン,え:カレン・ガンダーシーマー
『とっときのとっかえっこ』谷川俊太郎訳,童話館出版,1995年


今年,最後に紹介したい本は,絵本である。
絵本作家の五味太郎氏の『絵本をよんでみる』(平凡社ライブラリー)を紹介したときの日記(8月1日)にこの絵本の名も挙げておいたのだが,年の暮れにあたって,気に入った本の一冊として取り上げておきたい。
絵本だから,言葉は少ない。だから,この日記で紹介するのにあまり適当ではないし,そもそも,学部の学生さんを念頭に置いて本を紹介しているこの日記の性格にも合っていないかもしれない。でも,あまり原則ばかりでいくと窮屈になる。

長田弘氏は『読書からはじまる』(9月25日を参照)の第四章で「子どもの本のちから」を論じている。長田氏によると,子どもの本の世界を成り立たせているのは,「古くて歳とったもの」,「小さいもの」,「大切なもの」の三つだという。それに対して,大人の本の中心は自我。

「子どもの本を大人たちが自分から読むことをしなければ,その三つのものの重要さに,大人たちがあらためて思いをとどかせる,そのような機会はなかなか生まれないでしょう。」(『読書からはじまる』107頁)

そう,長田氏は書いている。

子どもの本は,大人になっていく過程,社会化や発達とよばれる過程が,陰に追いやっていくものを,浮かび上がらせる。
例えばアイデンティティというのは,たしかに大切なものに違いないのだろうが,どこまでも自分が中心である。それが当たり前ではないか,と言われると,なかなか言い返せないのだが,でも,絵本の世界では,違う。
例えば,マリー・ホール・エッツの『わたしとあそんで』(福音館)。
この本は単純だ。女の子が原っぱに一人で遊びに行く。カエルやバッタが出てくる。いっしょに遊ぼうとして手を出すと,カエルやバッタは逃げてしまう。手を出さずにそっとする。そうすると,カエルやバッタは逃げずに,近寄ってくる。たったそれだけのことだけれど,動物たちと一緒にいることができて,「わたしは いま,とっても うれしいの」。
この「わたし」は,自我といえば自我だろうが,しかし,大人の本の自我とはだいぶ異なっている。その違いを考えると,なかなか奥深い哲学的思索もできそうな気がする。
もちろん,そんなことなどしなくてもよい。人生を生きることに伴う様々な事柄を想像しながら,一人で原っぱに遊びに行く女の子の気持ちになってみる。それだけで,おもしろい。
社会化や発達過程として記述されない様々なことをそこで想像できるのならば,その人にとって絵本はきっと読む価値があるのだ,と思う。

さて,『とっときのとっかえっこ』。
登場人物は,ネリーという女の子と,そのお隣さんのバーソロミューおじいさん。そしてほんのちょっぴりの近所の人。
ネリーの家族は登場しない。ネリーの家族はどうなっているのだろうか。片親家庭で,親は仕事でほとんど家を留守にしているのだろうか。
バーソロミューは,すでに退職して一人暮らしといった風情の老人。ネコと一緒に暮らしている。ネリーが赤ちゃんのときは,まだ仕事もしていたようだ。
バーソロミューは,赤ちゃんのころからネリーの面倒をみている。それを,近所の人たちは温かく見守っている。周囲の優しい目が,ネリーの家庭の特別な事情(それにはバーソロミューも何か絡んでいるのかもしれない)を想像させる。でも,それはわからない。取り立てて特別なことなど何もないのかもしれないのだが,ついつい考えてしまう。
バーソロミューは,子どものネリーに,丁寧に,大切に,取り組んでいる。まだ子どもだからといったいい加減さはない。ネリーをベビーカーに乗せて精一杯楽しませようと工夫する。ネリーがどんなふうに踊りたいのかをみて,その範囲で手助けをする。失敗しても怒らない。
やがて,ネリーは成長し,パーソロミューは歳をとっていく。
ネリーが手助けできるようになっても,バーソロミューは自分のことは自分でしたがった。だから,ネリーはいざというときしか手をかさない。
階段から落ちて入院したバーソロミューに,ネリーは毎日手紙を書く。「はやくかえってきて,またいっしょにさんぽにいけるように」と。
でも,車椅子にのって帰ってきたバーソロミューは,散歩をあきらめていた。
ところがネリーは,バーソロミューの車椅子を押して,散歩につれていく。自分がベビーカーを押してもらったときのように,やさしく,丁寧に,そして楽しく。

大切なもの,大切な人に対して,どのように振る舞えばよいのか,一緒にときを過ごす中で,バーソロミューはネリーに手本を示す。ネリーは自然とそれを学びとり,バーソロミューに対して,同じように振る舞う。人と人との関わり合いのもたらす,小さな奇跡のようなものを,この本は描いている。

もちろんこれは,子どもの本で,大人が必ず付き合わねばならぬような類の書物ではない。でも,大切なもの,大切な人に対してどのように振る舞えばよいのかなど,大人の本のどこに書いてあるのだろう。

もしかすると,「大切なもの,大切な人に対して,どのように振る舞えばよいのか」という問い自体が,わかりにくいものかもしれない。
だとしたら,もっと想像してみよう。ネリーがひとりぼっちでいる姿を。家の中でずっと車椅子に座っているバーソロミューの姿を。そうなったかもしれない人生が,なぜそうではないものとなったのか,と。

では,どうかみなさん,よいお年を。