コミュニティを生きる

広井良典『死生観を問いなおす』ちくま新書,2001年


私のつとめている大学ではキャンパス移転事業が進行中だ。私の属する部局(大学内の教育研究組織)もこの4月から新キャンパスに活動の舞台を移す。そのために現在は,通常の業務に加えて研究室の引越作業にも追われる日々を送っている。
今回の引越先は仮の宿。さらに数年後にまた別の建物に移らねばならない。だから,荷物はできるだけ廃棄・整理して,身軽になっておこうと考えているのだが,一つ一つの資料を見返していると,なかなかすてられなくなる。
そんな作業中に,普段はあまり開かずにいる出版社の月刊誌の中から,広井良典氏による「コミュニティとは何だろうか」(『書斎の窓』2008年九月号)という記事を見つけた。
広井良典氏は,東京大学・同大学院を修了後,厚生省を経て,1996年より千葉大学法経学部助教授,2003年より同教授を務めている。医療や社会保障の具体的な政策研究から,科学哲学的な考察にいたるまで,幅広い領域にわたる業績を残している。
記事の中で広井氏は,生態学者・河合雅雄氏の『子どもと自然』(岩波新書)から,コミュニティの問題を考えるために二つの議論を引き出してくる。一つは,人間においてのみ「家族」という社会的単位が創出されたということ,もう一つは,人間は重層社会(個人と全体社会だけでなく,その中間に何らかの形で存在する集団,家族もその一つ)をつくるということ。
広井氏の言葉を引用しよう。

「…人間の社会は最初から個体ないし個人が「社会(集団全体)」に結びつくのではなく,その間に中間的な集団をもつ。したがって,個体の側から見れば,それはその中間的な集団「内部」の関係と,「外部」の社会との関係という,二つの基本的な関係性をもつ。前者(=内部関係)の原型が<母親>との関係であり(これはほ乳類に共通する),後者(=外部関係)の原型,正確には個体を社会全体に「つなぐ」存在の原型が<父親>である(<母親><父親>という表現をしたのは,いわばこれは原型的ないし象徴的な意味であり,現実の社会においては,それはさまざまな主体がその役割を担うことがありうるとの趣旨からである)。」(『書斎の窓』有斐閣,2008年,No. 577, 45頁)

広井氏は,河合雅雄氏の著作から得た知見をもとに,人間という種に固有な「中間的な集団」としてコミュニティをとらえ,そこからコミュニティの特質をとらえ返す。すなわちコミュニティは,内部関係と外部関係という「関係の二重性(ないし二層性)」に本質をもっている,というのである。
この洞見は,コミュニティをつくるということに関して,大きな示唆を提供する。
コミュニティをつくるというと,人々をコミュニティの内側にまとめるというイメージが強く浮かぶのではないだろうか。しかし,広井氏はむしろ,コミュニティははじめから外部関係を有すること,つまり外部に開いた性格をもっていることを強調する。そして,コミュニティの中心となる場は,同時にまたコミュニティの外部への通路でもあると指摘する。
以上の洞察は,この日記の中で何度か取り上げてきた上田閑照氏の言葉(2008年9月29日,9月25日,8月5日,8月4日)とも共鳴する,人間存在を考える上できわめて重要なものだと思う。
そこで,ふと気になって,以前読んだ広井氏の本を見返してみた。
『死生観を問いなおす』(ちくま新書,2001年)の中で,広井氏はコミュニティを時間論の観点から次のように論じている。

「たとえば,現実にはありえないことだが,私だけが1000年の人生を送ることができるとしよう。その間に,私にとって親しい人は,当然のことながら皆先に死んでいく。もちろん,新たに知り合うということはあっても…そうした人々もみな死んでいく。それは非常に空虚な感覚,ある意味ではもっとも根源的な孤独感をもたらすのではないだろうか。このことは,たとえ私の人生が一万年かそれ以上になったとしても変わりないはずだし,むしろ死んでいく相手との関わりが深いものであればあるだけ,その苦しさ,つまり自分だけが一人残り長い時間を生きなければならないということのつらさは,大きいものとなるはずである。
いずれにしても,個人としての人間の生─「私(の生)の時間」─は,私をとりまく人々と共有する時間,すなわち「コミュニティの時間」とのつながりをもってこそ,充足した意味をもちうるように思われる。言い換えると,私たちは無機的な時間軸上を生きているのではなくて,実は,自分の知っている人たちがともに生き,時間を共有しているという意味での「コミュニティの時間」の中を生きているのである。」(123-124頁)

コミュニティを生きるとは,コミュニティの時間を生きることだ,という。それは,無機的な時間軸上を生きることの対極に位置づけられる。無機的な時間軸上を生きるとは,スケジュール帳に書かれた予定をこなすだけのような生を送ることをイメージすればよいのだろう。それとは異なって,コミュニティの時間を生きるとは,「自分の知っている人たちがともに生き,時間を共有する」ことから成り立つ,という。そこでは,スケジュールをこなすというのとは違った時間の流れ方がある。その時間の流れは,コミュニティの外部との関係において生起する充実した時間,とひとまず言うことができるだろう。
ところで,コミュニティの外部に開かれた窓として,広井氏は上記の記事の中で,次の5つを挙げている。(『書斎の窓』同上,49頁)
(1)「神社・お寺」などの宗教施設→彼岸の世界という外部
(2)「学校」→新しい知識という外部
(3)「商店街」→他の共同体という外部
(4)「自然関係」→自然という外部
(5)「福祉・医療関連施設」→病や障害という非日常という外部
これらと共に過ごす時間は,無機的な・直線的な・量的な時間ではなく,なにかしら充実した時である。(ただし,現代では,直線的な無機的時間が支配的となり,たとえば「商店街」での消費活動は,他の共同体でつくられたもの=共同体の外部との出会いというよりも,自己の欲望を満たすもの=外部との出会いではなく自己の延長,という形式が支配になっている。)
私にとって興味深いのは,このような外部の経験が,単なる個人的な経験などではなく,コミュニティの時間という観点から捉えられる点である。たしかに,初詣などでなにかすがすがしい気持ちになるというとき,私たちは,単なる個人的な経験を生きているのではなく,そのような宗教的な儀礼を伝える共同体的な経験を生きている,ということができるのではないだろうか。
ところで,上の5つの外部のなかでも,おそらく(1)に,広井氏はもっとも深い関心をもっているような気がする。『死生観を問いなおす』(2001年)の中の,「転生そして「生者と死者の共同体」」と題された本書のあとがきに次のようなことが書かれている。

「…筆者の父親の出身地は山間部の相当な田舎だったので,小さい頃,夏休みなどにそこで墓参りなどをする時に,かすかに次のような感覚をもつことがあった。それは,墓参りのような行事は,都会では次第に形骸化し,あたかも生きている者が,ある種の慰みに行うことのようになっているが,むしろそうした田舎で墓参りなどすると,十分に表現できないが,その「墓」の“向こう側”にある世界のほうがはるかに大きく,また時間的にも永続的なものであって,墓参りをしている人間のいる(この)世界のほうが,むしろ一時的なものである,と思えるような感覚が生じる,ということである。
それは私自身もやがてそこに帰って行く場所であり,そのかぎりで生者と死者がともに属する場所なのである。……生者の時間と死者の時間は,私たち現代人が考えている以上に,もっと連続しているのであり,そして現在は,「生者と死者の共同体」ということの意味を,あらためて問いなおしていく時代なのではないだろうか。」(218頁)

広井氏の専門は医療や社会保障論だが,その仕事の根源にはこのようなコミュニティを生きる人間存在への哲学的洞察がある。ここには,現代における良質なる思考の見本が示されている。