教育の想像力

神野直彦教育再生の条件——経済学的考察』岩波書店,2007年


昨日(2月1日)は,「想像力」をやや特殊な方面から問題としてしまったかもしれない,と少し反省している。
ごくごく常識的な言葉の用例に従って「想像力」の重要性を確認しておくならば,哲学者の鷲田清一氏の次の言葉が的確だと思う。(鷲田氏の文章は08年9月2日でも紹介したので,興味のある方は,ご参照ください。)

「想像力というと,よく論理的な思考と対比される。空想や夢想はそうなのだろうが,想像力はちがう。目の前にあるものを足がかりとして,眼の前に現れていない出来事や過程をのびやかに想像すること,あるいはそれを論理的に問いつめてゆくこと。これは,科学や宗教や芸術,あるいは政治や倫理や(他人への)思いやり,それらのいずれにおいても根のところで働いているはずの,わたしたちの力だ。それがいまひどく萎縮している。」(鷲田清一『<想像>のレッスン』NTT出版,2005年,27頁)

想像力を,他者と共に生きている場面において(自分の中にいる他者をも含めて),当たり前に働かすこと。そのための条件の一つである教育について,今日は神野直彦氏(東京大学教授,専門は財政学)の著作から学びたい。

新自由主義の「小さな政府」のもとでは,イノベーションに果敢にチャレンジした企業が報われるのではなく,容赦なく人員整理をした「無慈悲な企業」が勝利した……つまり,新自由主義の「競争社会」のもとでは,イノベーションに果敢にチャレンジして,新しい産業構造を創り出し,それを包摂する経済システムに変革していく推進力はないということを物語っている。」(12-13頁)

ところが,産業においてさえイノベーションを生み出すわけではない新自由主義的政策を教育に導入しようというのが,昨今の教育改革である。

「一九八〇年代から開幕する教育改革の時代は,「競争社会」を目指す新自由主義的改革が繰り返される時代である。しかも,改革,改革と連呼して,繰り返される改革の結果は,いつも失敗する。」(13-14頁)

この失敗を糊塗するかのように,新自由主義は道徳を説く。

新自由主義も「小さな政府」にすれば,社会統合に亀裂が走ることぐらい充分に承知している。それだからこそサッチャーは,「ビクトリアの美徳」を説く。一九世紀の初頭にイギリスが自由主義謳歌していた時代には,家族とコミュニティの相互扶助や共同作業という協力原理が機能していた。そうした家族やコミュニティの自発的協力が機能すれば,社会システムの崩壊を予防してくれるはずだと考えられたのである。」(14-15頁)

コミュニティの絆を切り裂く政策を実行しながら,他方でその絆に頼るというのは,矛盾した政策に他ならないと神野氏は強調する。
しかし,経済を浮揚するためにはこうしたことも仕方ないのではないか,という人もいることだろう。ところが,新自由主義的政策は,肝心要の経済の運用にあたっても結局失敗を重ねている。

労務コストを低めることに,全力を尽くす日本では,国民が雇用不安に脅え,消費を控えるため,かえって失業が深刻化する。しかも,単純な職務の増加は,非正規従業員を激増させていく。非正規従業員の激増は,所得格差を激化させ,社会的不正義を蔓延させていく。ところが,賃金を低めても,賃金の低さは工業化の目覚ましい発展途上国にはかなわない。そのため経済成長も思うにまかせないのである。」(26頁)

さらに問題は,このような政策がある種の「教育効果」をもってしまうことである。

「日本では,可能な限り,個々人の職務を人間的能力を必要としないような単純な職務にしてしまい,賃金を抑制することによって,国際競争力を高めようとする。」(24-25頁)

そんなことはない,現代の企業は,何と言っても「人間力」を求めているではないか,という人もいるだろう。しかし,そうした要求があるということがまさに,現代社会が「人間力」を養い難い事態に立ち至っていることの証左ではないだろうか。実際,現代社会は高度に複雑に分化した社会であり,総合的な視点や全体を俯瞰する視野をもつことはきわめて困難なことになっている。
これを,人間的能力を必要としない分業が進むのは資本主義の理から致し方ないことだ,と言って済ますことはできない。何と言っても,アダム・スミスその人が,そのような資本主義の分業がもたらす危うさに警告を発していたのだから。

「…アダム・スミスが身につける必要があると考えているのは,生産能力つまり労働能力や職務遂行能力ではない。むしろ正反対の主張であるということができる。アダム・スミスは市場社会という分業が発達する社会になると,次のような変化が現象すると指摘する。
[以下,著者によるアダム・スミスからの引用]
分業が進むにつれて,労働によって生活する人びとの圧倒的部分すなわち国民の大部分の仕事が,少数の,しばしば一つか二つの,きわめて単純な作業に限定されるようになる。ところが大半の人びとの理解力は,必然的に,彼らのふつうの仕事によって形成される。一生を少数の単純な作業の遂行に費やし,その作業の結果もまたおそらくつねに同一あるいはほとんど同一であるような人は,困難を除去するための方策を見つけだすのに自分の理解力を働かせたり,創意を働かせたりする必要がない。…そのため彼は自然に,そのような努力の習慣を失い,一般に,およそ人間としてなりうるかぎり愚かで無知になる。精神の活発さを失うことによって,彼はどんな理性的な会話を楽しむことも,それに参加することもできなくなるばかりでなく,寛大,高貴,あるいはやさしい感情をもつこともできなくなり,そのため私生活のふつうの義務でさえ,その多くについてなにも正当な判断をくだせなくなる。自分の国の重大で広範な利害について,彼はまったく判断をすることができず,彼をそうでなくするためにきわめて特別の骨折りがなされないかぎり,彼は同様に,戦争にさいして自分の国を防衛することもできない。…」(45-46頁)

アダム・スミスが危惧したのは,分業という社会制度による想像力の破壊である。これを改善するには「きわめて特別の骨折り」がなされる必要があると,「神の見えざる手」を語ったアダム・スミスでさえ考えた。
残念ながら,学校選択制や教員免許の更新制度などは,この「きわめて特別の骨折り」には当てはまらないように思われる。問題は,市場の論理で行き届かぬ部分をどう手当するかであるのに,これらの制度の背後に控える論理は,市場の論理そのものだからである。

アダム・スミスが指摘するように,市場社会以前の前近代社会では,「各人の多様な職業によって,各人はたえずおこる困難を除去するために,自分の能力を発揮し方法を発明せざるをえなくなる。創意は活発に維持され,精神は,文明社会でほとんどすべての下級階層の人びとの理解力を麻痺させるように思われるねむそうな愚妹におちいるのを抑えられる。それらのいわゆる野蛮社会では…だれもが戦士である。まただれもがある程度政治家でもあり,社会の利害や社会を統治する人びとの行動について,一応の判断をくだすことができ」[以上は,アダム・スミスからの引用]たのである。」(51-52頁)

市場社会の成立以後,経済,政治,社会というサブ・システムは分離するようになり,だれもが職人かつ政治家かつ戦士であるようなことは困難になった。このような社会の機能分化に対応してアダム・スミスは「防衛,司法に加え,政府の「第三の義務」として,「公共事業と公共施設」を指摘し,財政による教育の提供を提唱した」(57頁)のである。したがって,国家の財政による教育とは,社会分化によって生じたわれわれの精神の分化(あるいは,想像力の萎縮)を克服するためのものであった。
ところが日本の学校,とりわけ大学は,市場適合的なものとして成長してきた。

「重化学工業化によって形成される階層構造と,大学という高等教育が結びついて,日本では高等教育が市場化されていった。というよりも,義務教育以外の学校教育は,市場から購入するものとして位置づけられる。……
義務教育以外の学校教育が市場から購入するものとして位置づけられると,高等教育はますます階層構造と結びつくことになる。…
…学校教育が経済システムにおける階層構造と結びつくと,学歴社会あるいは学校歴社会が生じる。もちろん,受験競争も激しくなる。大学も階層構造と結びつくと,真理探究と研究の「場」でもある大学が,本来の「学ぶ」という場ではなくなってしまう。……」(102-103頁)

だから,大学を学ぶ場に変えよう,そのためには試験や卒業を難しくしよう,という言い分も根強いのだが,しかしそれは,問題の本質からややそれている。
仮に,社会全体の教育システムが変わらない中で,試験や卒業だけを難しくしたらどうなるか。そういう大学は,サービスを購入すべき大学とはみなされなくなるだけのことだろう。仮にそうした大学の人気が高まるとしても,受験競争の上に卒業競争までが激しくなるその大学で,いったい何が学ばれるというのだろうか。

「人間は生来,競争心を抱いているわけではない。競争心を抱かせるには,子供たちを教育して,他者は敵だという競争心を教え込まなければならない。…
そのため学校教育で子供達に競争を動機づけ,競争原理を身につけさせる。しかし,競争原理を埋め込まれると,他者と共同して社会を形成する能力が育たなくなってしまう。
社会とは他者との協力なしには生存ができない人間が,共同生活を営む「場」である。いやしくも人間が共同生活を営む社会というからには,「他者の成功に貢献すれば,自己も成功する」という「協力原理」が埋め込まれていなければならない。
……
いやしくも社会が,他者との協力なしに生存することが不可能な人間の共同生活の「場」だとすれば,社会の構成員として成長しなければならない子供たちに教え諭す必要のあることは,他者への親近感,他者への思いやり,他者との相互理解であるはずである。つまり,他者の成功に献身すれば,自己も成功するという「協力原理」を身に付けさせることでなければならない。」(131-132頁)

協力原理の本質は,機能分化した社会において(想像の及びがたい)他者と共に生きるための想像力である。これが,財政によってまかなわれる教育の本質機能でなければならない。そして,様々に機能分化した社会において,このような想像力の養成を果たす中心機関は,やはり学校である。
(学校の外の)社会の論理をもって学校を攻撃することはそろそろ終わりにして,醒めた眼で学校の機能を見なおすことが必要ではないだろうか。
場の論理で学校を攻撃することは,結局のところ,自分以外のものを想像する力をわたしたちから奪い取り,わたしたちの社会の根っこを腐らせていくことにしかならないのではないかと思う。