魂と社会の想像力

ロバーツ・エイヴンス『想像力の深淵へ 西欧思想におけるニルヴァーナ』(森茂起訳)新曜社,2000年


前回(1月27日)の末尾で,「想像力」についてふれた。
それをうけて,やや突飛な展開になるけれども,「想像力」について,ユング派心理学の立場から論じた本書を取り上げよう。
訳者あとがきによれば,著者エイヴンスは1923年生まれ。ユング思想と元型的心理学,ハイデッガー思想を研究し,ニューヨーク州イオナ・カレッジで哲学を講じた。自ら仏教徒を名のり,詩人でもあるという。
本書は,ユングヒルマン(ユング派の支脈である元型的心理学の代表者),バーフィールド(英国の批評家),カッシーラー(ドイツの哲学者)という4人の思想家を「想像力」という観点からたどって,西洋思想の課題を提示するものである。

「われわれのすべてを苦しめている不全感と根こぎ感の大部分は,精神的なものを合理的なものと混同することに由来するといってよいだろう。合理的人間(アリストテレスのロゴス的人間 zoon logon echon)は,何より自らの意識的心への征服欲にとりつかれている。・・・この思考がもっともあからさまに現れたものが科学と技術である。」(2頁)

この「不全感と根こぎ感」の解決のために西洋は,東洋の精神的価値やその手法を取り入れようとしてきたが,しかし,その受け入れられ方には問題があったという。

「東洋の精神性が,パナケイア,つまり考えうる限りのあらゆる病気に効く万能薬として合理主義的戦争に取りこまれると,その結果として,自らの魂に直面するのを避けるためならなにごともいとわない人間が生まれる。人々は,インドのヨーガを実践し,厳しい食の戒律を守り,神秘的な聖句を機械的に繰り返すが,それは,あらゆる良きものは自らの魂からやってくるという信頼が欠けているからにすぎない。」(2-3頁)

欧米に出かけたことのある人は,意想外に菜食主義者やヨーガの実践者の数が多いこと,書店には神秘主義関係の本が大量に並んでいることに,目を見張ったことがあるのではないだろうか。これらは「不全感と根こぎ感」を克服しようとする試みといえよう。
しかし,このような東洋的な精神的価値とその追求方法を生活に取り入れてみても,エイヴンスによれば,それによってかえって魂の問題から外れてしまっているという。
では,どうすれば人間は,魂の問題に,真の自己の内面に,向きあえるのか。
エイヴンスは,副題にある「ニルヴァーナ」という言葉を手がかりに考察する。

ニルヴァーナ[涅槃]とは,主体-客体関係のないところで,一種の直接知覚のみによってのみ―「知ることなしに」―知ることが出来る。あるいは想像のように知られるという言い方もできよう。この意味で,「ニルヴァーナに入る」とは,恐ろしく果てしない再生の連鎖という存在の病理から逃避することではなく,この生死の世界,サムサーラ(輪廻)の世界こそがニルヴァーナであると,菩薩(仏教における理想的人間)が認識することを意味する。」(5頁)

「直接知覚」などの神秘主義的な表現は,合理主義的な知に慣れ親しんだ者には,強い違和感を感じさせるかもしれないが,西田哲学の「純粋経験」に通じる問題圏を想像すれば,少し抵抗感は薄れるかもしれない(かえって増すかもしれないが)。それはひとまず措こう。
ここで注目したいことは,エイヴンスがこのような東洋的な思考を西洋の文脈に置き直し,「あらゆる良きもの」が「自らの魂からやってくる」ために「想像力」の考察が必要だとしていることである。

「西洋世界が西洋なりのニルヴァーナに達するためには,東洋の精神性の高みに到達する前にまず,底知れず広大で危険な想像力の洞窟の中に迷い込むことが要請されるのではないだろうか。さもなくば精神原理に一元的に帰依してしまう危険性があるからである。まず想像力,次に精神である。また,精神が想像力から独立しているつもりでいるときすら,最終的に精神を「イメージする」のは想像力なのだから,想像力なしの精神化はない。精神の独立や分離そのものが,人間の手で創造された他のあらゆるものと同じく,魂の生成物であり魂のファンタジーなのだから。」(7-8頁)

西洋近代の,そしてまた現代の学校教育(最近になってあらためて振興が叫ばれている理科教育)の,基本的な世界観は物心二元論である。
精神と物体の二元論では精神(心)と物体は認められるが,「魂」の存在は認められない。認められたとしても,それは,「精神と物質を集めたもの」としてでしかない。しかし,エイヴンスによれば,

「魂は,正確に,絶対的に,端的に両者[精神と物質]の中央にある。魂は,厳密に言えば,存在しないが,他のあらゆるものに存在と意味を与える」(8頁)

という。この魂の領域を,エイヴンスは,フランスのイスラーム学者アンリ・コルバンに由来する「想像界(mundus imaginalis)」という言葉で言い直す。

「それは存在論的に,物理的現実にも精神的,知的現実にも劣らず現実的な次元である。想像界に固有の知覚器官は想像力であり,知的作用・認識作用として感覚や知性と同等の地位にある。コルバンによれば,想像界は感覚界と英知界の間を媒介する働きを持つ。」(7頁)

繰り返しになるが,この魂としての想像界を,西洋のデカルト的二元論は正当に位置づけることができない。
コギトとしての精神とそれによって明晰判明に認識せられるところの物体だけが確実に存在すると見なされ,想像界は,幻想として放逐されてしまうのである。このデカルト哲学によって忘れられた領域をエイヴンスは「忘れられた第三領域」と名付け,「想像力」という観点から究明を試みるのである。

「私の立場は,東洋と西洋の精神性がかかげる目標があらゆる二元性を超越することである限り,両者のきわめて変化に富む諸現象形態に通底する共通の基盤は想像力である,というものである。超越という言葉で私が意味するのは・・・生の本質的多中心性を自覚することである。・・・なぜなら私は,人間的かつ自由でいる道はそれ以外ないと堅く信じているからである。」(10頁)

かつて竹内好は次のように述べたことがある。

「・・・あらゆるものは,近代のワクのなかにあるかぎり,ヨーロッパの目を逃れることはできぬ。ヨーロッパの内部矛盾が自覚される危機のたびに,いつもヨーロッパの意識の表面にうかぶものは,それが潜在的にもつ東洋的なものへの回想である。ヨーロッパが東洋へ郷愁を抱くのは,ヨーロッパの矛盾の様相のひとつであるだろう。矛盾が顕在的になればなるほど,かれは東洋を思わずにはいられない。」(竹内好「中国の近代と日本の近代」,『日本とアジア』ちくま学芸文庫,16頁)

エイヴンスの試みは,ヨーロッパ近代の矛盾(二元論)を東洋的なイメージを媒介に克服しようとするものであるが,その独自性は,西洋の矛盾を自ら克服しようとする思想家群を取り扱うことによって,それを成し遂げようとすること,つまり安易な東洋と西洋の対照を抜け出ている点にある。
とはいえ私は,このような魂に関わる論考を非常に重要であるとは思いつつ,それらが概して社会性や政治性を脱落させる傾向があることに,深い違和感を感じてきた。

「「人間存在は何よりもまず心理的である」。論理的先行性から言えば,経済的,社会的,宗教的,物理的などの現実はすべて,心的イメージや心のファンタジー表現から導かれなければならない。」(113頁)

たしかに,心理的なものが先行するのかもしれない。しかし,どのようなイメージ内容が受け入れられたり,認められたりするかは,社会的,政治的,歴史的な条件にも依るのではないだろうか。(そのことをエイヴンスなども否定はしないと思うのだが・・・)
だとすれば,魂の方面ばかりを取り扱って,解放の道つまりニルヴァーナの方向だけを考えさせるような議論には,注意が必要だとも感じる。この現実の身体をもった人間が生き抜かなければ大地の上の世界を,もう少し考える必要があると思うのだ。
エイヴンスの定義では,想像界は精神と物体の中間としての第三領域に属するのであり,歴史や社会はこの中に含まれることになるのだろう。しかし,この精神界を拡大鏡で見るとき,より物体に近い方面とより精神に近い方面とに分けることが出来るだろう。
政治哲学や社会理論は,想像界における物体的なものを,さまざまなイデオロギー共同幻想として論じてきた。そこでは,社会的解放は論じても,逆にエイヴンスが論じるような魂の課題は問題としてこなかった。
現代の学問は,これらを一緒に扱うことはできない。しかし,少なくとも問題意識としては,両者を射程にいれることが必要なのではないだろうか。(1月22日にあつかった南方熊楠における真言密教がこの具体例といえようか。)そうしないと,魂の解放を求める人はいっそう脱社会化するほかないだろうし,社会に生き甲斐を求める人も,根こぎ感からどんな世界観に流れるかわからない。
ひるがえってみると,オウム問題の根っこは,ここにあったのではないかとも思う。