脳と宗教

養老孟司『カミとヒトの解剖学』ちくま学芸文庫,2002年,(法蔵館,1992年)


専門の異なる人が,自分の関心ある研究テーマについて述べているのを読むのは,たいへん興味深い。しかも,それがまったく専門の異なる著名人だと,なおありがたい。自分の考えていることが,非常識に陥っていないかどうかを確認する目安が与えられるから。

本書は,主として雑誌『仏教』(1988年から1991年)に連載されたものから成っている。東京大学医学部教授の肩書きで『仏教』という雑誌に書いたというのは,本職から外れた仕事のようにも思える。しかし,本職の話題について書くのは,ある意味,当たり前。むしろ,そこから外れているようにみえることにこそ,その人の本当の関心が示されている,といえるのではないか。
以下,第一部の「臨床宗教」から引用する。

「脳がある体験をすることと,外界にその対応物が存在することは,別なことである。宗教では,ときどきこれを一緒にするから困る。科学と喧嘩になる。」(18頁)

しかし,こう述べるからといって著者は宗教的な体験を否定するわけではない。上に続いて次のように述べられる。

「こう考えてみよう。数学で世界を解釈すれば,できないことはない。しかし,それでは世界の大部分はこぼれ落ちてしまう。・・・では数学とは何か。それは要するに脳の機能である。つまり脳内の過程である。
では神秘体験とはなにか。それも脳の機能である。テンカンの患者さんに,しばしば神秘的体験,法悦状態を感じる人がある。だからといって,数学者をとくに馬鹿にしないのと同様,こうした体験を馬鹿にする必要もない。それが「人間」だからである。」(18頁)

神秘体験を「脳の機能」に還元することには,一部の宗教者には,反発を感じさせるものかもしれない。
しかし,ある体験を解釈する方法は多様であってよいのではないか。特定の宗教的な立場に立った記述のみを正しいとするのではなく,それはある前提にたった場合には正しいが,違う前提に立ったら別の解釈も成り立つ,とここでは考えることにしよう。

「宗教は,一面では知覚系における認識を規定し,他方ではそれに対応して,運動系における倫理を定める。・・・この二分は,脳の構造に,典型的によく対応している。われわれの大脳皮質も,中心溝という溝を境にして,前は運動,後ろは知覚であり,両者は様々な経路で連合する・・・。宗教の合理性は,この両者の結合の,ヒトにとっての最適性の追求ではないかと思われる。」(32頁)

このように著者は,宗教を脳の機能として,その中心を知覚と行動の最適な行動パターンの確立におく。
しかし,宗教の合理性などといっても,何のことかわかりにくいかもしれない。それは,現代の教育が,科学的なものにばかり正当性を与えることの弊害のように思われる。
もちろん,人間の生きている世界は,決して科学的なものばかりによって成り立っているわけではない。それを著者は,カッシーラーの哲学にも触れつつ,独自の「シンボル」論によって,記述しようとする。

「ヒトすなわち現代人の特徴を,私はシンボルの存在と考えている。宗教はじつは典型的なシンボルの一つなのである。」(42頁)

著者は,自分のシンボルという言葉の用法について丁寧に説明しているが,ここでは引用しない。できるだけ広くこの言葉を解しておいてほしい。
さて著者は,進化の過程におけるシンボル機能の発生をネアンデルタール人後のことと推測する。

「なぜ,現代人にシンボルが発生したのか。シンボルとは,脳のある機能の帰結である。どんな機能か。それはアナロジーである。
たとえば動物を考えてみよう。動物はふつう生存に直接必要な行動をする。これはアナロジーではない。アナロジーを行動主義的にいえば,生存に直接必要な行動に平行した行動が,それが生存に必要でない状況で,生じることである。」(46頁)

解剖学者である著者は,アナロジー発生の理由を脳に生じた剰余から説明する。

「動物が生理的に必要な行動をしている間は,脳は必要であっても,その脳を動かすためには,環境からの特定の刺激が必要である。ヒトではなぜか脳に余分ができてしまったために,環境からの刺激だけではなく,ヒトの脳内活動そのものが,脳の活動を引き起こす刺激に変化したらしい。ところが脳内の回路は,ヒトも動物の場合と本質的には変わらない構築をしているはずで,量だけ多いわけだから,「類比」すなわちアナロジーなる機能が発生するのである。」(47頁)

「・・・ヒトの脳内には,動物に見るような「生理的」な回路と,シンボル的な「生理的回路を模した」回路がいわば二重に存在する,ということなのである。」(48頁)

著者は,進化によって生じた<脳の余剰→アナロジー機能の発生→シンボルの成立>という脳の進化から,宗教を説明する。
保守的な宗教者は,進化から宗教を説明するこのような議論には抵抗を感じるかもしれない。でも,「進化」の部分を,例えば「神による創造」というならば,保守的なキリスト教徒も納得するだろう。
解剖学者にとっては,それは許し難いことになるのかもしれないが,私にとっては,いずれでもかまわない。重要なのは,アナロジーとシンボルという基本的な機能から,人間の生きる世界(その中には,死もシンボルとして存在する)が成り立つということを,現代の自然科学者もはっきりと書いているということだ。

「・・・ヒトの進化の過程で,もし抽象化ということが最初に起こったとすると,それは死を巡ってではないかと思われるのである。抽象化というのは,言い換えればシンボル能力である。・・・抽象化能力あるいはシンボル能力の具体的な入口は,じつは「死」だったのではないか。なぜなら,死とは・・・抽象的であって具体的であるからである。具体と抽象をつなぐ性質を,死はいわば「具体的に」そなえている。自己の死と他人の死を巡って,ヒトのシンボル能力発現の最初の契機をそのまま素直に発展させたもの,それこそが宗教ではないのか。」(50頁)

このように考えることができるとすれば,宗教の世界は決して余分なものではない。著者の言い方に倣うならば,それが余分に見えるのは,脳自体が余分だからだ,ということになるのだろう。