シンボルと宗教

ケネス・バーク『文学形式の哲学 象徴的行動の研究』(森常治訳)国文社,1974年(原著,1941年)


ケネス・バークは1897年アメリカ,ペンシルバニア州ピッツバーグ生まれの文学批評家。哲学,言語学社会学などの学問領域をこえた独創的な批評体系の構築を試みた,という。(バーク『象徴と社会』森常治訳,法政大学出版局,1994年の著者紹介による。)
本書は,『文学形式の哲学』 (1941) の翻訳に,『象徴行動としての言語』 (1966)の三編と,『カウンター・ステイトメント』(1931)からの抄訳一編を加えた,いわばバーク入門書である。
文学批評の世界については詳しくないのだが,標題がエルンスト・カッシーラー『象徴形式の哲学』に似ており,これから引用する一編「人間の定義」(これは『象徴行動としての言語』(1966)に収められている一編)が,個人的に興味をもっている哲学者カッシーラーの思想に通じる内容であったため,興味をひかれた。(ただし,本書の人名・作品索引には,カッシーラーの名前は出ていない。)
バークは,人間の定義の第一条を次のように述べる。

「人間はシムボル使用する動物である。」(100頁)

ナチ・ドイツから亡命してアメリカに渡ったカッシーラーは,『人間』(1944年)の中で,人間を「シンボル的動物 animal symbolicum」と定義した。(カッシーラーの『人間』は,2008年8月19日,11月29日に取り上げた。そして,昨日(3月2日)取り上げたように,養老孟司氏もシンボルというものの働きに注意している。)
シンボルという言葉の意味や用法には論者によって相違があるのだが,ここでは「シンボル(象徴)」という言葉によって論じられ得る可能性をさぐるために,あまり細かいことには注意せず,バークの言葉に耳を傾けていきたい。
(なお,翻訳は一貫して「シムボル」という表記を採用しているので,そのまま使用する。)

「たしかに人間は「シムボルを使用する動物」である。だが,この定義が意味するものをほんとうに実感できるまでになるにはむつかしい。これは,われわれが現実と呼んでいるものの圧倒的大部分は実はすべてわれわれのシムボル組織を通して作りあげられたものだということなのであって,頭で解っていてもはたして実感できるだろうか。・・・われわれが主として地図,雑誌,新聞に描かれる現在と結びついた過去についてのシムボル群がなかったなら,われわれの今日を作りあげているリアリティは(われわれの個々の生活がつなぎ合わさって作られる紙のように薄い隊列以上の)一体何なのだろうか。・・・・・・われわれが個人として直接に体験する現実がよしや宝石のように貴重であろうとも,われわれがもつ現実の全体像はあくまでもわれわれのシムボルシステムの構築物なのである。」(101頁)

「シムボル組織」や「シムボルシステム」について,詳しい説明はないが,シンボルを作りあげる有機体的構造を指すのであろう。バークは,人間はシンボルを使用する動物というだけでなく,「シムボルを使い,シムボルを作り,シムボルを誤用する動物」(103頁)であると補足した上で,誤用の例について次のように述べる。

「シムボルの誤用について云えば,筆者はすでに述べたような扇動家のことばの魔術のほかに「心因性の病気」を考えている。それはシムボル化の働きについて充分に批判的でないがために肉体の反応に混乱を生じさせる例である。」(103頁)

シンボルの誤用の例としてバークは,フランツ・ボアズ(翻訳では「フランツ・ボアス」となっているが,こちらが正しいようだ)の体験を引用している。ボアズはエスキモーの宴会に招かれて,鯨の脂肪だと思ったものを我慢して食べたが,気分が悪くなって吐いてしまった。しかし,実はそれは鯨の脂肪ではなく,ただのメリケン粉団子であったという。「鯨の脂肪」というシンボルが「肉体の反応に混乱を生じ」させたわけである。
しかし,これをわざわざ誤用というべきかどうか。シンボルの「使用」がかなり意識的な使用を意味するのに対して,「誤用」は意識せずにシンボルが作動して混乱を生じさせる場合を云うようだが,何が混乱で何が混乱でないのかは,必ずしも自明ではないように思う。たとえば,薬と信じて飲んだ偽薬が効いてしまうプラシーボ効果は,典型的なシンボル効果だと思うが,これは「誤用」なのだろうか,それとも「使用」なのだろうか。
バークの分析でおもしろいのは,むしろ「置き換え」に関連する分析である。「置き換え」とはシンボル使用に伴う働きであり,「ある方法で出来なかったなら別の方法でやればいい」(104頁)というもの。

「人間のシムボル組織は置き換え・・・の機能をもつのであるが,いったん感情がこの機能にからんでくると,シムボルを使用するのみならず,肉体の病い,またはシムボル的に惹き起こされた心の病をもつ人間はさまざまな置き換えの形をいじくりはじめる・・・たとえば肉体の懲罰のかわりに悔悟,罪滅ぼし,弁償,罰金の支払いをしたり,またスケープゴートの便利さも享受しはじめる。」(105頁)

バークはヴィクター・W・フォン・ハーゲンの『インカ帝国』から次のような例を引用している。

「ペルーの古代の道路のすべての高みにはアパチュータと呼ばれる石積みが置かれている。それは重い荷物をもった旅人用のもので,彼等はその側を通るときその上に石を一つ置く。その石は重荷のシムボルであって,旅人はそれだけ荷が軽くなったような気になるのだ。」(105頁)

バークは,人間の定義として,「第二条,人間は否定形の発明者である」(105頁),「第三条,自分自身が作った道具によって本来の自然的状態から隔離されている」(110頁),「第四条,人間は階位・階層の精神に追い立てられる動物である」(113頁)と続け,最後に人間は「完全主義にすっかり「いかれている」者,である」(114頁)と述べる。完全主義とは,シンボルをシンボルの意味内容通りに完全なものにしたがるというものである。たとえば──,

ヒットラーの『我が闘争』で展開されたナチのユダヤ観は最近におけるこのような皮肉な「完全主義」の徹底した例である。近年[これが出版されたのは1966年]の流行の「東」と「西」の文化比較も同様な完全主義の傾向のあらわれである。」(116頁)

ステレオ・タイプ化されたユダヤ人というシンボルは,ナチによって完全なものに仕立て上げられ,いわゆる「ユダヤ人問題」の「最終解決」のために,絶滅収容所がつくられ,虐殺が実行されてしまう。荒唐無稽なナチの人種主義は,人間のシンボル使用における「完全主義」に基づいていたというのだ。(ちなみに,「ユダヤ人問題」は決して過去のものではなく,今もパレスチナ問題として継続している。)
このように,完全主義の性質をもつシンボル化の働きは,(三つ上の引用でもふれたように)スケープ・ゴートを生み出す。

「この危険な意味における完全性追求の原理は人間が行うシムボル化現象がもつ他の主なる諸特徴に支えられている。シムボル化現象の諸特徴として人間の行動を運動としてみないで行為としてみること,そして人間の行為をドラマの立場からみることが挙げられるが,ドラマの概念のなかには「犠牲」の概念が当然含まれるのである。かくて完全性を求める人間の運命は危険な方向へと向かうのであるが,例の「否定形」の原理[人間の定義の第二条]は犠牲に供せられる要素をはっきりと規定することに手を貸すのだ。そして「代替え」[「置き換え」のことだろう]がシムボル構造の主要な特徴であるかぎり,スケープ・ゴートを仕立てあげて我が身のカタルシスを手に入れようとする条件はととのうのである。(このスケープ・ゴート作りには,自分でも否定したく思っている自分の嫌な面を敵の特徴として差し出す,という「自然な」誘惑も含まれる。)」(117頁)

昨日は,シンボルを生み出す人間を「宗教」という側面からみた。今日とりあげたケネス・バークは,シンボル化がもつ社会的な作用(スケープ・ゴートづくりや,紹介しなかったが社会階層の形成や世界を滅ぼしかねない専門家の専門用語など)にふれるが,その分析は宗教にも及ぶ。

「神や悪魔の存在論的真偽とは関係なく,ただ純粋に技術的な立場からのべるならば,人間が神と悪魔を信じる理由は充分にあるのだ。それはことばの本質としてはじめからそなわっているのだ。言語が本質的に奨励的(人間が相互協力を実現するための媒体)であるかぎり,神は人間のそうした願いを完全に体現した存在である。同様に,ののしりが人間のことばにそなわるごく「自然な」機能の一つであるとすれば,悪魔はののしりの対象として完璧な姿である。天国と地獄は両々あいまって,人間が行う賞罰に対し究極的にして完全な根拠を提供する。神はまた讃美と嘆きに耳を貸す理想的な聴き手なのである。」(118-119頁)

バークの議論は,神や悪魔を信じることの(ある種の)合理性を明らかにする。そして,それを導くものがシンボルの完全主義であることを指摘することで,宗教に伴う危うさを指摘しているともいえるだろう。
「だから宗教は危ない」と思うのももっともである。しかし,それが「人間の定義」に由来する作用に基づくものであるかぎり,この問題から逃れることができるわけでもないのである。