コミュニティ

ジェラード・デランティ『コミュニティ─グローバル化と社会理論の変容』山之内靖・伊藤茂訳、NTT出版、2006年(原著、2003年)


前回紹介した「地域創成リーダーセミナー」の第2回(セミナーとしては第1回)が、一昨日の土曜日に行われた。今回のセミナーは、社会福祉を専門とする熊本学園大学の豊田謙二先生に、セミナーを率いる九州大学法学研究院の石田正治先生が問いかけるというトーク形式で進行した。
テーマは「若者の仕事」。
豊田先生はまず児童虐待の事例を話ながら、現在の社会福祉学では、施設に入れてしまえばよいという考えではなく、一人一人に対する適切なケアが課題となっているという。(以下の文章はセミナーのメモからから。括弧内は私の補足。)

ひるがえって今の日本社会は、家族や地域などのコミュニティが弱体化して一人一人がケアされない社会になっており、そのために、特に若者が「壊されている」。若者には仕事が少なくなり、大切にされるということも少なくなった。
人間関係が弱く、仕事がなく、お金もなければ、家にいるほかない。こうした社会の問題が「引きこもり」につながっている。
この問題には個人では対応できない。社会的援助が必要。また、これら年金や国民保険も支払えぬ若者が高齢化していったときのことを考えるならば、社会的支援によって、現在の生活から抜け出る出口を用意しなければならない。(ところが現状は「敗者」に責任を押し付ける議論や意識がまだまだ強いのではないだろうか。)
例えばドイツでは、人間関係を築けるようにカフェをつくる、社会的扶助を与えるのと同時にボランティアへの参画を義務づける、などの対策がとられている。
しかし、こうした中でも最も重要なのが、若者に仕事を用意するということ。
では、いかに仕事を用意するのか。
(これについては、どこでも効く特効薬はなく、それぞれの地域や状況によって対応策は異なるだろう。講師陣は参加者に意見を述べてもらった上で、それぞれに考えてもらうためのヒントを提供した。特に重要だと感じたのは以下のこと。)
現在の日本では低収入が貧困につながっているが、しかし、世界を見渡せば日本より低収入でも貧困にはつながっていない地域がたくさんある。何が違うのか。
低収入が貧困につながるのは、低収入の人間が「身体だけのむきだしの生」に陥っているから。つまり、個人の身体を拡大し保護する私財や人間関係が細っているから。
この部分に社会的資源を投入し、個々人にそったケアをしていかなければならないだろう。

セミナーの後は、茶話会。午後1時半からおよそ5時半まで、濃密な4時間だった。


前回、久繁哲之介氏の『地域再生の罠』という本を紹介したとき、最後に「心」という言葉をとりあげたが、これは誤解を与えたかもしれない。
かつて存在した人間と人間のコミュニティ的なつながりを復興しましょう、という意味で受けとられたならば、それは誤解だ。
そのようなコミュニティ的な人間関係というのは、幻想だろう。
そうではなく、それぞれの人間が現場においてどのように生きているのかについて、もう少しリアルな認識に基づいてものを考えるようにしよう、ということを言いたかった。

冒頭にあげたジェラード・デランティ著『コミュニティ』。「訳者解説」によると、原書裏表紙には次のような紹介の文章があるという。

「近代社会がますます個人主義へと傾斜してゆくについて、コミュニティは、ますます不確実さをましてゆく世界のただなかで安全性と帰属を与える源泉となったのであり、郷愁をさそう理念であり続けた。そして最近では、政治の基盤である国家の代替物と見られるようになっている。コミュニティは消滅するとかつて言われたことがあったが、まったくそうではない。コミュニティはグローバリゼーションが進み、個人主義が進むにつれて、復活している。」(286頁)

私もその一端にかかわらせてもらっているセミナーも、このような意味の地域コミュニティの「復活」に関わるものである。
もっとも、訳者が解説しているように、上の文章中の「近代社会がますます個人主義へと傾斜してゆく」というのは、実態とは異なるだろう。訳者が指摘するように、コミュニティの再評価は、70年代以降の欧米日における経済成長率の低下による福祉国家体制の機能不全を背景としている。デランティは実際、こうしたモダンの社会の行き詰まりのなかでコミュニティを考えている。
訳者によれば、『コミュニティ』において著者デランティが描こうとするのは、

「伝統的遺産としてのコミュニティではない。デランティのいうコミュニティとは、グローバリゼーションの時代において新たに「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)として再発見され、まったく新たな質をもって復活してくるものを指しているのである。」(290頁)

デランティ自身の言葉を引用しておこう。

「今日のコミュニティはモダニティの産物であって、前近代の伝統的世界の産物ではない。それは、個人主義、復元力、一定の柔軟性を前提としている。このことにより、コミュニティ形成の際の自己と他者の境界線はさほど重要でなくなる。伝統的コミュニティが存在するのと同様に、脱伝統的な形態のコミュニティも存在するのである。
簡単に言うと、個々人は社会的な力によってのみコミュニティの中に位置づけられるのではなく……自らをコミュニティの中に位置づけるのである。コミュニティを区別するのは象徴的な意味の力ではなく、想像力であり、自己が自らを再生する能力である。」(264-265頁)

象徴的な意味の力がコミュニティを境界づける・コミュニティを維持する作用に関わるのに対して、想像力はコミュニティを創造する作用に関わる。
デランティは、伝統的なコミュニティが象徴的な意味によって静態的に境界づけられていたのに対して、現代のコミュニティは動態的に想像=創造されるのであり、したがって従来のような象徴的な意味による安定的な維持は困難であるという。

「こうしたコミュニティの想像的な側面は、コミュニティの不可能性を示唆している。コミュニティは人々に対し、社会によっても国家によっても提供され得ないものを、すなわち、不安定な世界における帰属感覚を提供する。しかし、コミュニティはまた、究極の目的が不可能であることを明らかにすることで、これを破壊もする。こうした新たなコミュニティは、それ自体すでに、より大規模な社会と同様、断片化・多元化しすぎていて、永続的な帰属の形態を提供することはできない。」(267頁)

デランティは、したがって、コミュニティを社会の基盤とみなす考え方を否定する。もしもそれを社会的な基盤とみなすならば、そのようなコミュニティ思想は、

「ヘルムート・プレスナーがコミュニティという発想に対する古典的な批判の中で論じているように、全体主義的権力のイデオロギーになる可能性もある。」(267頁)

日本では、1930年代の日本主義・農本主義アジア主義にそのようなコミュニティ主義がみられたのは、よく知られている通りだ。
現代において地域に関わる者がこのような陥穽にはまらないためには、あくまで現代的な条件の認識を基盤とし、勝手な空想を楽しむのではなくて、どこまでもリアルな認識にこだわる必要があるだろう。
そして、そのリアルな認識をコミュニティの想像=創造につなげること。「むきだしの生」を人間関係によって豊かにしていくという発想は、私にとって、そのためのヒントになったように感じた。