地域再生の罠

久繁哲之介『地域再生の罠』ちくま新書、2010年


昨年から、福岡県筑豊地区で地域創成に携わっている指導者のためのセミナーに関わるようになった(「地域創成リーダーセミナーin福岡」)。
このセミナーは今年で三年目を迎える。本年度は昨日10月2日からスタートした。来年2月まで続く全10回ほどの講演やワークショップを通して、筑豊地域で活動する人々に、地域の創成や地域リーダーとしての生き方についての考え方を紹介・提示し、それを活用するための実践的な機会を提供する、というのがセミナーの趣旨だ。
自分の専門とはだいぶかけ離れている仕事だが、地域の現場で問題に取り組んでいる人の経験に耳を傾けては、現状を変えていくために自分に何ができるのだろうかと考えるようになった。
冒頭に挙げたのは、そうした関心から手にした本の中の、最近の収穫。「地域再生プランナー」として地域の現場に精通している著者の言葉は、きわめてリアリティに富んでいる。

地域再生に関する現状の問題点を、著者は次のように整理する。

「まず、論点をわかりやすくするために、「地域再生関係者」「土建工学者」「自治体」という3者の視点から問題の所在を整理してみよう。

地域再生関係者
(1)大型商業施設に依存し、大都市への憧れが高い。すなわち、地域に「ないもの」をねだり、経済的な豊かさばかり求める。その結果、地域資源や心の豊かさを見失う。
(2)経済的欲望の高さから、成功事例などハウツー論に飛びつく。

土建工学者
(3)地域再生関係者に成功事例の摸倣を推奨する。だが、その多くが「実は成功していない」し、稀にある成功事例は、市民のニーズや価値観とは違う「遠い過去か異国」のものである。
(4)自らの理想とする都市政策や器を先に造り、市民がそれに合わせることを強要する。

自治
(5)専門家の上から目線による「成功事例」に価値を置き、市民目線と顧客志向に欠ける。
(6)前例主義で、「実は成功していない」前例を踏襲して、地域を衰退させる。
(7)縦割り主義で、各組織は連携せず、各組織の目的だけを叶える、効果の出ない施策をつくる。しかも、他組織との整合性に欠けて弊害を生む。その結果、地域は疲弊する。」(162-163頁)

見解の一つ一つは既に言われてきたことかもしれない。しかし、事例に則した著者の整理はわかりやすい。
それでは、このような問題を解決して地域を活性化・再生するにはどうすればいいのか。
鍵は「人の心」にあると著者は言う。「葉っぱビジネス」で有名な徳島県上勝町の事例を紹介しながら、著者は次のように述べる。

上勝町の葉っぱビジネスは、なぜ持続的に成長しているのか。その本質的な要因には気が付きにくい。仮に、その本質に気がついたとしても、横石さんの献身的な努力は誰にも真似できないものだ。
横石さんは『そうだ、葉っぱを売ろう!』(ソフトバンククリエイティブ、2007年)を刊行した。30年近い上勝町での生活を自伝的にまとめた本書を読むと、葉っぱビジネスが持続的に成長しているのは、町の高齢者達と横石さんとの強い絆があったからこそだと感じられる。その絆は、横石さんの想像を絶する献身的な努力の積み重ねから生まれたこともわかる。つまり、上勝町の葉っぱビジネスは、決して摸倣がたやすい代物ではない。摸倣が困難であるにもかかわらず、葉っぱビジネスが成功した事例だけを見て、第三者に摸倣を推奨するのはあまりに無責任というものであろう。」(168頁)

ところが、この「無責任」が日本を覆っている。自分ではできないことを立案し、押し付けてくる人がいかに多いことか。問題は切実なのに、その切実さに直面していない人々が、組織の存在証明のためのような仕事で事を済ませている。

「人に優しい都市づくりを主張してやまない土建工学者たちが、人より自動車交通を優先して路面電車廃線した岐阜市を「住みよい街ベスト50」に選出する矛盾を前章で指摘した。この矛盾は、街中居住を推奨する土建工学者の多くが、自らは大都市の「郊外」に住居を構えていることを示してもいる。何をするにも便利な郊外に住む彼らは、路面電車という公共交通を失った地方都市の街中に住まうことの苦労を想像できないのであろう。
にもかかわらず、地方都市の都市再生施策には、公共施設や住宅などを十把一絡げにして街中に集約することを、あたかも他人事のように提案する。自らの生き方に裏づけられていない彼らの提案には、「他者の心や文化を慮る心性」が著しく欠けているように思えてならない。」(170頁)

著者は特に土建工学者を厳しく批判するが、もちろん問題は彼らだけには留まらない。土建工学者の提案を利用して、予算を獲得することが仕事になっている人々もいるだろう。実際、そうした予算がなければ生活がもたない状況にある人々も多い。
問題は、投入される貴重な資源が全体の利益につながるような回路が寸断されていること。だから、問題の解決には資源投入される部門が全体の利益を生み出すような回路を発見することが重要だ。
ところが、現実にはなかなかそれが見つからない。実際、利益を量るための技法を私たちは多数もっているが、しかしそれらは、特定の枠組みでのみ計算可能なものでしかない。
全体の利益を実感するできるような枠組み自体が揺らぎ、「全体の利益」を騙る部分的な利害による施策に、国民の多くは冷めた視線をなげるばかり。投げやりへと誘う無力感、とめどないニヒリズムが進行する。
私たちが必要としているのは、このような社会を覆う無力感やニヒリズムを克服する思想の言葉であるが、本書の価値は、そのための言葉を著者自身の体験のなかから生み出している点にある。
著者は、義母とのエピソードを次のように記している。

「・・[義母の経営する]「甘党たむら」は被爆を知る先代創業者の「市民が気軽に喉の渇きを癒し、ゆっくり休める場を提供したい」との想いから昭和23年に開業され、顧客から感謝を伝えられると、義理母は次のように感じるという。
「店が愛され、顧客から感謝を伝えられると、自分も愛されているようで毎日が幸せだ。顧客も私も幸せ、こんな素敵なことはない」
・・・
・・私は結婚してから年に1〜2回ほど広島に帰省して、「甘党たむら」店内の「表面」しか見ていなかった。そして、身内である飲食店の「私益」をあげることばかり考えていた。私はそんな浅はかな視点から「製造原価が100円近い二重焼きと日本茶140円セットの適正販売価格は3倍」と自信をもってアドバイスした。
自信の根拠は、当時の私はIBMのマーケティングでそれなりの実績をあげていたことにある。私は会社でビジネスと同じ「論理的な手法」で適正販売価格を導いた。具体的には次の「販売価格決定要素」をしっかりと調査・計算した。すなわち、不動産価格、製造原価、顧客回転率、人件費、同業店舗販売価格などである。
・・・
・・・義理母はビジネスを学んだ経験などない。だから私が「顧客回転率」などといっても、話は通じない。しかし、「顧客が1時間以上もいるのは顧客回転率が悪く、値上げが必要」という私の提案には自信をもって次のように反論した。
「それは、なんとか回転率が悪いのではなく、顧客が居心地よく幸せを感じている。幸せを感じてくれるから、後に何度も来てくれるし知人も連れてきてくれる」
さて読者の皆様は、義理母と私のどちらが「正しい」と思うだろうか。」(199-201頁)

徳島県上勝町の「葉っぱビジネス」も、著者の義母の店「甘党たむら」も、それを支えているのは「心」だ。地域も、地域を支える個々のお店も、それが実際に人々を集め、一つの事業として継続的に営まれるには、人々の「心」をつかまなければならない。様々な地域を実際に見た上で語る著者の言葉に、私は何も付け加える必要を感じない。
私は、ひどく古めかしい思想を過大評価しているのかもしれない。しかし、私たちの社会は、それをあまりに過小評価しているのではないだろうか。あるいは、国の官僚も、自治体の役人も、あるいは大学の教員も、駅前の一軒の甘味屋よりも狭い範囲の人々の「心」しか考えられなくなっているのではないか、というべきかもしれない。
「地域」とは、このように狭い関係者の「心」しか慮ることのできなくなった専門家が、専門の枠を超えてものを考える訓練の場でもある。
本書は、その訓練のためのよき案内書の一冊であり、著者が提案する(本ブログでは紹介できなかった)ビジョンと提言は、地域再生を考えるためのヒントを提供するだろう。