ヒンドゥー教の人間学

マドレーヌ・ビアルドー『ヒンドゥー教の<人間学>』講談社、2010年(原著旧版1981年、新版1995年)


前期の途中からこのブログを書くことどころか、見ることさえできなくなりました。
毎年毎年、坂を転がり落ちる雪だるまのように仕事が増えていくのを感じます。でも、これはおそらく眼の前の事柄にとらわれた錯覚。目の前のものを超えてさらにその先を見透すことのできるようなパースペクティブをもつことができるならば、目の前のことに振り回される度合いも減るだろう、と考えるようにしているのですが・・・なかなか思うようにはいきません。

久しぶりにこのページを書き始めたら、10年前の今日、今の勤め先に赴任したことを思い出しました。
何度も応募をはねられ、なんとか今の勤め先に採用してもらい、東京のアパートを引き払って、まだ新しい公務員合同宿舎に入居。少し離れたところにあるダイエーで、大学に通うためにと自転車を買いました。
ダイエーの店内では、その年ペナントを制したダイエー・ホークスの応援歌が「ダイエー・ホークス」の名を何度も何度も繰り返していました。
赴任したころの国立大学は、その後、国立大学法人に変わり、キャンパスは街中から郊外に移転しました。御世話になった先輩同僚が定年や異動で大学を去り、以前は先輩方から事情を聴く一方であった自分が、いつの間にか事情を説明する側にまわるようになりました。
事情により、公務員宿舎を引き払い、新しい住み処を探して、引越もしました。

変わらぬことといえば、精一杯やっているつもりの授業の後の、何を学生に伝えられたのだろうかという不確かな思いぐらいです。
自分がたしかに生きてきた人生であるはずなのに、自分の人生でないように感じられます。

「インドの歴史は、インドが好むと好まざるとにかかわらず、一つの歴史として存在してきた。その伝統的思考では、世界でのものごとが実際に起きたままに理解させるものはない。人ははじめから、宇宙の秩序を維持するものとしてのみ概念化されている。地上における人の生は全般的に、人智を越えた、予め与えられた特定の目的にのみ向けられている。・・・人に意味を与えるのは宇宙であって、その逆ではない。したがって、この人間学に結びつくのは、解脱者以外がすべて永遠へと回帰する周期的な時間の概念である。世界の終焉は何はともあれ訪れる。しかし、それは一時的なものにすぎない。このことは神性の次元において、外向きの行動に対する、ヨーガの集中の優位性を示している。同時に、宇宙のリズムの永続性が明示的に意味するのは、この世に生きる人はさしたる理由はなくてもそこにしがらみを持つということだ。」(231-232頁)

このしがらみを去るために、ヒンドゥー教では宇宙万物との合一を教える。
これは、歴史のなかで価値あるものを生み出すことに人生の目的を認める世界観と異なる。

「現代西洋の理念を全般的に構成するものに対して、これほど真向から対立するものがあるだろうか。西洋の意識は暗に、人生と行動は意味があるものとして、そしてまた、世界はそれが参加する特別の歴史を持つべきものとして要求する。しかし、この要求は、インドの観点からは逆に神話として映るのだ。ヒンドゥー教の見方が神話的であるのと同様に、恐らくこれも神話的であるのだろう。しかし、我々の眼には、西洋の見方は人間の差し迫った問題(多くは自分たちで作り出した問題)の解決策を探すのに役立つという利点を持つように思われるのである。・・・逆にまた、キリスト教に負った現代の観念の中で、西洋における個人の「救済」とは、生死によって限定された人生に何らかの意味を与えることでしかないのだとも我々は感じる。」(232頁)

この10年をふり返って感じる、不確かな曖昧な感覚というのは、おそらく、「キリスト教に負った現代的な観念」から生じるものなのだろう。
まだ死によって限定はされていないけれども、しかし必ずや死によって限定される自己の生に、何らかの意味を与えるようなことが困難であるということだけは、予感できる。

ビアルドーからの引用は、旧版のあとがきより。