アウシュヴィッツ以後の神

ハンス・ヨーナス『アウシュヴィッツ以後の神』品川哲彦訳、法政大学出版局、2009年


イスラエルの神は熱情の神である。イスラエルを愛する民として選んだ神は、イスラエルの民の不忠実に対して責めを与え、預言者を遣わして神への復帰をよびかける。旧約聖書のメイン・テーマだ。
ところが、イスラエルの民が忠実となると、神による責めの原因は民の不忠実によっては説明できなくなる。新たな説明は、証人あるいは殉教者という観念にうつることになる。これは「最も罪のない正しい人びとこそが最もひどい禍悪をこうむる」(7頁)というもの。ユダヤ独立闘争を戦ったマカベア朝の時代(紀元前1〜2世紀)に作り出された考え方である。
ユダヤ人に対する迫害は中世ヨーロッパで何度も繰り返された。迫害や弾圧の犠牲者は、「「聞け、イスラエル」、つまり、神はただ一なりという告白を口にして死んで」(7頁)いったという。死んでいったものは、聖人とよばれ、「かれらが犠牲になることで、約束の光が輝きました。すなわち、来たるべきメシアによる最終的な救済の約束の光が輝きました」(同上)。
しかし、アウシュヴィッツは全く違った死をユダヤ人にもたらした。不信仰に対する責めによっても、正しき者の殉教によっても、説明のできない死。

アウシュヴィッツという名をもつできごとからは、もはや、こうしたことのどれもがぬけおちています。忠実ということもなければ、忠実でないということもない。信仰もなければ不信仰もない。罪も罰もない。試練もなければ証言もなく、救いの希望もない。強さもなければ弱さもなく、英雄的行為もなければ臆病な行動もない。反抗もなければ服従もない。そんなものはどれもその場をえなかったのです。そのどれもがアウシュヴィッツのあずかり知らぬことです。アウシュヴィッツがあずかり知っていることは無だけであり、その無は未成年のこどもたちすらむさぼり、飲み込みました。」(7頁)

神は善であり、また全能のはずだ。それなのに、苦難を与える神、あるいは苦難を許す神とは何なのか。これは、旧約聖書ヨブ記(正しい人ヨブに苦難を課す神ヤハウェの正当性とは何か)の主題に通じる問いである。
もちろん、神への信仰を否定するのならば、このような問いはもはや問題とはならない。しかし、

「神の概念をたやすく捨て去ろうとはしない者は──哲学者にもその権利はあります──、神の概念を放棄せずともよいように、神についてあらためて熟考し、ヨブをめぐる問いに新たな答えをさがさなくてはなりません。そのとき、それを試みる者は、<歴史を支配する者>[としての神という観念]をたぶん手放さなければならなくなるでしょう。すると──いかなる神がそれを起こるにまかせることができたのでしょうか。」(9頁)

この問題を考えるためにヨーナスは、ミュートス(神話)へと遡る。ミュートスとは、「プラトンが、知りうるものの彼岸の領域にたいして用いるのをゆるしたあの比喩的な、けれども信頼しうる推測を講じるという手段」(9頁)である。

「まず初めに、あずかり知ることのできない選択にもとづいて、存在の根拠である神的なものは、みずからを偶然と敢為と無限に多様なる生成へとゆだねました。しかも、そっくりまるごとゆだねました。神的なものは、空間と時間のなかでくりひろげられる冒険に突入したわけです。」(10頁)

このミュートスから、ヨーナスは「神の世界内存在」を語る。このミュートスが語るのは、世界を統べ治める超越的な神ではない。神は自らを世界の創造へと投げ入れたのである。そこでは、「世界は世界自身にゆだねられたものとしてみえ」、「世界の法則はいかなる干渉もゆるさぬものにみえてくる」(10頁)。
「世界内存在」としての神は、主権的な支配者というよりも、世界の無限の多様と偶然に身をまかせたものである。しかし、そこから「超越がおずおずとその姿を現わして」(11頁)くる。

「最初の動きは生命への志向です。それは世界にとって新しいことばでした。生命とともに、永遠の領域への関心が法外に高まり、生命の成長するなかで突如として、自分の身を作る質量を獲得しなおすという飛躍が生じました。」(11頁)

神的なものは、自ら世界に投げ出したものを、生命において取り戻す。しかしながら、「生命とともに死も現われ」(12頁)た。

「死ぬことがありうるということは、自力で存在するという新たな可能性を手に入れるために支払わなければならなかった代償です。・・・生命は本質的に取り消されうる、壊れうる存在です。生命とは、死すべきものの冒険にほかなりません。・・・有限な個体が感受したり、行為したり、受苦したりするのは短いあいだのことですが、しかし、それらは生が有限であるという抑圧のもとでせつないまでに痛切に感覚されます。そのなかに神的なるものの作り出した景色がいろどりゆたかにくりひろげられ、神的なるものはそこに自分自身を経験します・・・。」(12頁)

「神の世界内存在」のミュートスは、さらに人間の到来という画期を語る。

「人間の到来は知と自由が到来したということにほかなりません。知と自由というきわめて鋭利な両刃の天分を授かったことで、ただひたすら自己を充実してきた主体の無垢は終わり、善と悪とが分かれ、そのもとで責任という課題が登場します。神の仕事はここで初めて明らかになりますが、これから先は、人間の次元で進められる遂行の機会と危険とに、神の仕事がゆだねられたのです。」(14頁)

「人間の出現とともに、超越はみずからに目覚め」(14頁)た。しかし、それは、全能の力をふるって人間を支配する超越神ではない。
仮説的ミュートスによる思考のはて、ヨーナスは、神について次のように述べる。

「さて以上から、私たちが果敢に進めてきた思弁神学の試みのなかでおそらくは最も決定的な点に到達します。すなわち、この神は全能の神ではありません!」(20頁)

そして、アウシュヴィッツについてヨーナスは次のようにいう。

アウシュヴィッツが猛威をふるった数年間、神は沈黙しました。起きた奇跡は人間から到来したものばかりです。救うために、苦境を減じるために、いやそれどころか、事態が変わらないならイスラエルの運命を共有するためには、どんな犠牲もいとわない、さまざまな民族からなる、たいていは名も知られていない、あの義しき人びとの行いによってです。・・神は沈黙しました。そこで、私はこういいます。神はそれを欲したからではなくて、そうできなかったから、介入しなかったのだ、と。」(25頁)

このような、命を救うことも出来ぬ神を、何故信じ続けることができるのだろうか。
ヨーナスは、自らの思考が、「古くからあるユダヤの教えからはるかに遠ざかったところ」(25頁)にあることを認めながら、しかしそれでも神への信仰を失わずに次のように語る。

「悪を説明するために、マニ教の二元論をわずらわせることはありません。悪が立ち上がり、世界のなかで力を獲得するのは、ただ人間の心からのみ起こることだからです。神が力を断念したのは、ひとえに人間の自由をゆるすためです。私たちは・・神の全能を否定しました。理論的には、そこから次のいずれをとるか、選択の余地があります。最初から、神学的ないし存在論的な二元論をとるか、それとも、唯一の神が無からの創造をつうじてみずから制限するか、いずれかです。」(26頁)

ヨーナスは、アウシュヴィッツ以後の神を思考して、自己抑制する神と人間の自由という観念にたどりつく。全能の神への信頼ではない、自らを抑制する神への信仰は、人間の使命を次のように表現する。

「神は生成する世界のなかに自分をそっくりまるごと与えてしまったのですから、神にはもはや与えるべきものはありません。いまや、人間のほうが神に与えなくてはなりません。人間がこのことをなしうるのは、神がこの世界を生成させたのを悔いなくてはならないようなことが起こらぬように、せめてもそう頻繁には起こらぬようにと、人間がその生の途上において、しかも人間自身のためにではなしに、気をつけることによってのみです。」(28頁)

本書カバーの著者紹介によれば、ハンス・ヨーナスは1903年、ドイツの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。学生時代にシオニズム運動に参加。ハイデガー、ブルトマンのもとでグノーシス思想(神学的二元論の立場を取るキリスト教の異端思想)を研究。ナチスの政権掌握の年にドイツを出国し、イギリスを経てパレスチナに移住。第二次世界大戦はイギリス軍に志願し、戦後はパレスチナ戦争に従軍。その後、イスラエルを出てアメリカ合衆国にわたり、ニュー・スクール・フォー・ソーシャルリサーチ校の教授を務めた。1993年に死去。上に紹介したのは、「アウシュヴィッツ以後の神─ユダヤの声」。1984年に受賞したレオポルド・ルーカス博士賞受賞の際の記念講演である。
ところで、ミュートスを用いるような議論にいかなる意味があるといえるのだろうか。
訳者の品川哲彦氏によれば、「特定の存在論形而上学を前提にしている」ヨーナスは、ドイツでは「人間同士の合意にこそ倫理を基礎づける討議倫理学者からの厳しい批判にさらされ」、またその存在論形而上学のためにアメリカでも受容されない、という(198頁)。
ここで考えたいことは、合意形成につとめる当の人間の思考は、何によって深められるのか、ということである。価値の多元性を認め、それらのあいだの合意を重視する姿勢はたしかに重要である。しかし、多元性と合意という形式を尊重する文化のなかで、いかにして人は、他者への責任を自ら引き受けるような存在に成長しうるのだろうか。
ミュートス(神話)とは、知りうるものの彼岸にあり、したがって実証主義者からは無意味なものとみなされるけれども、人間が自らの内面を問い成長してゆくためには、必要不可欠の参照枠組みなのではないか、と思うのだ。