永遠のとなり

白石一文『永遠のとなり』文春文庫、2010年


何回か取り上げたことのある白石一文(2009年9月7日、9日)の、2007年に出た十冊目の作品である。
昭和三三年生まれの主人公とその友人の物語。田舎から東京の大学に出て就職し、それなりの仕事をして、さてこれからという矢先に、それぞれ人生に躓き、やむなく故郷に戻る。
取り返しの付かない年頃にさしかかった人間の姿が、たんたんと描かれている。
舞台は福岡。博多弁が心地良い。

「何でやろなぁ」
あっちゃんが呟く。
「ほんと、何でわし東京なんか行ったんやろうなあ」
その言葉に、自問自答してみる。あの十八歳の頃、どうして東京に出ようと思ったのだろうか。五十間近まで生きてみると、当時の自分の選択に大した根拠などあるはずのなかったことがよく分かる。
「東京なんて行かんでもよかったなあ」
そう口にしたのは私の方だった。
「そうかもしれんねえ」
あっちゃんがすぐに応じた。 (115-116頁)

あっちゃんは、幼いころに両親が離婚。母子家庭の貧困の中で育ち、母に報いたいという一心で、一橋大学を経て、大手都銀に入社。母を呼び寄せてこれから孝行をしようというときに、母を失う。入社三年目で銀行勤めに見切りを付け独立したが、四十歳のときに肺癌がみつかり、事務所を閉めて、博多に戻る。
主人公のせいちゃんは、あっちゃんと同級生。早稲田大学に入学し、損保会社に入社。務めている会社が業界首位の大手と合併後、人員整理の嵐のなかで大切にしていた部下を失い、うつ病を発症。早期退職制度で退職して、博多に戻る。

上に引用した会話の直前にはこんな話が交わされる。

こうして見ると博多という町は、なだらかな山々と穏やかな入り江に守られた風光明媚な土地柄である。
「この町はきれかねー」
思わず口に出して言っていた。
「わしも九年前に帰って来てつくづく思ったと。なんも東京の大学なんか行かんでさ、おとなしく九大に行って、地元で就職しときゃほんとによかったねって。そしたらかあちゃんもずっとこっちにおられたし、あげん早く死なせんですんだかもしれん」
昨日尋子さんの葬儀に一緒に出かけたばかりだから、あっちゃんの言葉により一層の真実味を覚えてしまう。 (114頁)

作品の主題は、死である。
現代の日本人の多くが、夢を描いて、東京に出、仕事をし、結婚し、こどもを授かり、会社や家庭のことで喜び、悩み、そしていずれ、死んでいく。
こんな人生にどんな意味があるというのだろうか。
何ごとかを成し遂げることに意味があるとされ、何ごとかを成し遂げたかのように自分の人生をふり返る。
しかし、二人は、そうした幻想に頼ることはできない。
精一杯、真面目に頑張りながら、何故こんな人生になるのか。若ければ、なにかしら取り返すこともできるかもしれない。しかし、いつの間にか引き返すことのできない歳を迎えているのだ。

「・・・わしは最近、大事なんは生きとるちゅうことだけで、幸せなんてグリコのおまけみたいなもんやと思うとる。あった方がよかけどないならないでも別に構わんとよ。・・・」(213頁)

著者は、主人公にこんな言葉を語らせる。
主人公の言葉は、意味を求めることによっては救われない人間の、突き抜けた認識を語る。しかし、それは、醒めた眼による透徹とした認識というわけではない。
大切な友人を失うかもしれない恐怖、崩壊した家族の経済的負担だけを負わされかねない不安、仕事がない・仕事ができない自分のこぼれ落ちる砂のような存在感が、主人公にとりついているはずなのだ。それなのに、作品全体を支配しているのは、むしろ静けさである。
それは、苦悩そのものではなく、その苦悩を抱えた人間を取り巻く光景が、街が、言葉が、この土地に住む人間の厚みが、この作品を支えているからだろう。
生きるということは、そうした支え合いの現実そのものであり、そこに意味など見つける必要もなく、ただあるだけのものかもしれない、と思った。