レディ・ジョーカー

高村薫レディ・ジョーカー新潮文庫、2010年(毎日新聞社、1997年、の全面改訂版)


連休、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。
私は、一つだけイベントがありましたが、それ以外はどこにも出かけずに、たんたんと過ごしています。
よい休暇をお過ごしになりますように。

さて・・・。
4月に入って新学期の準備やら何やら慌ただしく過ごしていたが、その合間を縫って、文庫化されたばかりの宮部みゆきの『楽園』と高村薫の『レディ・ジョーカー』を読んだ。
誰かがどこかで書いていたが、宮部作品のよさは、登場人物の「けなげさ」だと思う。人物の振る舞いや言葉遣い等の丹念な描写によって、登場人物の性格が描かれる。作者が大切にしたいと考えるものが、比較的ストレートに表現される。例えば、『楽園』で言えば、物語の端緒となる依頼主・萩谷敏子。この作品は決して宮部作品として最上の部類に入るものではないと思うが、登場人物への共感から、作品に付き添ってしまう。

高村薫は、実は『マークスの山』を単行本ヴァージョンで読んだことがあるだけだ。だから、あまりはっきりと言うことはできないのだが、宮部作品と較べて印象に残ったのは、人間の性格よりも、それの背負っているものに対する関心が強い、ということ。もちろん、性格も人間に負わされたものの一つだろう。しかし、高村作品の登場人物に負わされているものは、自分ではどうしようもない何ものかだ。しかも、その何ものかを精一杯背負って仕事をしたからといって、誰かに評価されるわけでも、あるいは幸せな結末にたどりつけるわけでもない。
たしかに人生とは、そんなものではないか、と思う。しかしながら、高村作品は、不条理で捉えがたい闇のような現実ばかりを描くわけではない。いな、むしろ、そのような背負わされたものに翻弄され、脅かされ、宙づりにされながら、しかしその事態を受け止め、手がかりを求め、自問し内省しながら、先に進んでいく人間の姿が描かれている。登場人物はそれぞれの状況の中で格闘しながら、自らの置かれた状況を認識し、自分を発見していく。
社長の城山と、刑事の合田に語らせた言葉が、印象に残った。

「それにしても城山はいま、この二十数年のうちでもっとも注意深く、ただひたすら目の前の一人の女性を眺めている自分に気づき、驚きを新たにし続けていた。この娘が幼かったころから、ずいぶん楽しませてもらい、明るい気分にさせてもらったが、そのころ自分がどれほど真剣にこの顔を見ていたか。だいいち自分は、五十八年の人生で人の顔をこんなふうにじっと見つめたことが一度でもあったか。一度もなかったというのが真実だった。なにしろ五年前、この自分は佳子に結婚を考えるほどの恋人がいることにも気づかず、その恋人が不幸な死を遂げたと知ったときに、その胸中をほとんど推し量ることもなかったのだ。
そうして、人間に対するこの恐るべき傲慢と無関心が、一連の事件を引き寄せた根源かも知れないと思い至ったとき、城山自身は初めて、今日の成り行きのすべてを、ある意味で納得することになった。事件の原因を作ったのは佳子ではなく、まさにこの自分自身だった…」(下巻、74頁)

作家は、おそらく力を込めて「人間に対するこの恐るべき傲慢と無関心」と書いている。
もう一つ。合田が自分の属する警察組織について自問する場面。

「四万人もの人間が構成する組織は、だから素朴に四万の思いと欲望の集合体だということにはならない。組織とはたんなる空集合で、そこに含まれる個々の構成員が完全に演算可能な記号であるときに集合も完全なのだとすると、この観念上の組織は、自分たちが日ごろ考えている組織とは別ものであるほかない。しかしまた、構成員が全員記号になるような組織は現実にはあり得ず、構成員はみなそれぞれ人間をやめることはない。自分たちは組織という集合になんとなく人間の欲望の足し算や引き算を見、非合理を見、嘆息し、絶望し、そうすることで仮想の構成員を生きているだけなのだ。そして、ときにはそれに自分で押しつぶされ、あるいは押しつぶされる前に自死を選ぶよう自らを追い込んでゆくのだが、本来の組織から見れば、そういう自分たちの思いのすべてが幻想であり、組織の論理や、それへの自負や執着もまた幻想だろう。
否、この幻想はただの幻想ではない。ありもしない幻想の集合に対して、ときに三好のようになにがしかの抗議の声を上げる者がいるのは、まさに自らが人間として生きるためにほかならないのだ。ただ抗議によって人間になり、ただそれだけを支えに、自分たちは日々警察官という幻想の存在を生きているということだ。否、見ているのは幻想だが、その幻想に震わされているこの体験だけは現実だというところに、自分たちの<いま>があるというべきか。そうだ、組織で生きる苦しさとは、幻想でしかないものが身体の体験となる、この一人芝居のことなのだ──。」(下巻、295頁)

一人芝居は、しかしながら、苦しいばかりでなく、この上ない喜びの幻想ともなる。組織への加担も、それへの抵抗も、組織と人間との複雑微妙な関係のなかでは、どちらがより本源的とも言い難い幻想となって、一人芝居を演出する。
もう一人の刑事、半田は、その一人芝居の中で、身を滅ぼしていく。それと対決する合田も、「生き続けることの拒否感」から、決断をする・・・。
小説が困難な時代において、作家の想像力の可能性を示した一つの到達点だろう。