ガリヴァー旅行記を読む

高坂正堯『近代文明への反逆─社会・宗教・政治学の教科書「ガリヴァー旅行記」を読む』PHP研究所、1983年


著者高坂正堯(こうさか・まさたか、1934-1996)は、現実主義の立場から政治についてたびたび発言し、注目を集めた国際政治学者である。京都大学法学部教授をつとめ、テレビのコメンテイターとしても有名だった。
高坂氏の父、高坂正顕(こうさか・まさあき、1900-1969)は、京都帝国大学文学部に学び、一九四〇年から京都帝国大学人文科学研究所教授、戦後は関西学院大学文学部教授などを歴任した哲学研究者である。戦中、海軍に協力したために公職追放を受けた。
高坂正堯氏の現実主義には、父の姿を見るなかで学んだものが数多くあるのだろう。
そうした高坂氏のお眼鏡にかなう作家が、『ガリヴァー旅行記』で有名なジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift, 1667-1745)である。

「私が・・スウィフトが好きなのは、彼がいろいろと考えさせてくれるからである。実際その点こそスウィフトのイギリスに対する貢献と言えるだろう。また、スウィフトのような変人が各時代にいたことが、イギリスの活力と正常さを保つことになった重要な原因であろう。」(まえがき)

ガリヴァー旅行記』(正式な題名は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』“Travels into Several Remote Nations of the World, in Four Parts. By Lemuel Gulliver, First a Surgeon, and then a Captain of several Ships”)は、1725年頃(日本では享保の改革の時期)に書き上げられた。子どもの読み物と受け取られているが、実は大人のためのユートピア小説である。
ユートピア小説は、現実にはない世界を描く。しかし、それを読む人は、妙なリアリティに惹きつけられる。虚構だが現実、あるいは、虚構を通しての現実。この否定的な現実観を通り抜けると、現実の虚構性、あるいはその馬鹿馬鹿しさ、に気がつかされる。

「どの時代でも政治の世界の競争には、馬鹿げたところがあるものだが、王政のもとにおいては、競争は宮廷の御機嫌とりという形をとり、その馬鹿らしさは人間的で見やすい形をとる(大衆民主主義では、政治家は大衆の御機嫌取りをせざるをえず、これまた馬鹿げた様相を呈することをついでながら指摘しておこう)。」(72頁)

もっとも著者は、民主主義を投げ出すことをすすめているのではない。民主主義の幻想化を戒めているのである。虚構を通した現実の馬鹿馬鹿しさの認識は、現実から距離を取りながら、どうやってそれと付き合っていくのがよいかを考えさせる。
スウィフトが付き合わなければならなかった政治の現実は、例えば次のようなものである。

「…「ここ七十ヵ月というもの、この国では二つの政党が激しく争っている。政党の名前は、それぞれトラメクサン党およびスラメクサン党というのだが、これは彼らを区別する標識である、穿いている靴の高踵(こうしょう)と低踵(ていしょう)とから来た名前である。事実この国古来の憲法からいえば、高い踵の方が好もしいと言われている。ところが、それにも関わらず陛下は、貴下もきっと御覧になったろうが、政府のあらゆる施政、あるいは陛下より賜わる諸官職において、もっぱら低い踵ばかりお用いになる。ことに陛下御自身用の靴などは宮中のだれよりも…踵が低い。この両党派の反目というものは非常なもので、一緒には飲み食いもしなければ話もしない。数においてはまだトラメクサン、すなわち高踵党が優っているが、しかし権力は全くわが党の手にある。ただ心配なことは、皇儲(こうちょ)殿下がどうやら高踵党の方に傾いていられるらしい。その証拠には少なくとも殿下のお靴は一方の踵が他の一方の踵よりも高くて、ために跛(びっこ)を引いて歩いていられることは、われわれにもはっきり分かる。」(第一篇第四章)」(75頁)

低踵党と高踵党とはホィッグ党とトーリー党、陛下と殿下とはジョージ一世とその後を継ぐジョージ二世のことである。これをホィッグやトーリーという名詞で書いたら、読者は生々しい現実に距離を保つことが難しくなる。虚構の表現を通すことにより、読者は現実に対する距離を手に入れ、かえって冷静に現実を見ることができるようになる。

ところでスウィフトの鋭い目は、政治状況だけではなく、人間性そのものにも向けられた。『ガリヴァー旅行記』第四篇「フウイヌム国」(馬人国)の物語である。
馬人国では、「人間と同じ肉体的特徴をもつ動物は、理性が発展せず下等動物なのであり、「ヤフー」と呼ばれて、馬の形をした動物の支配を受けているのである」(166頁)。
スウィフトは、馬が人間より優れているという「虚構」によって、人間が馬よりも優れているという「現実」を虚構化する。次はスウィフトからの引用。

「「この国のある地方の原野には、さまざまの色に光る石があって、これがまたヤフーどもの大好物である。よくあることだが、もしこの石が半分ほど地面に突き刺さっていたりすると、それこそ手に入るまで何日でも、朝から晩まで爪で掘りかえしている。そして家へ持ち帰っては、小屋の中にうずたかく隠しておくのだが、まだそれでも、もしや仲間どもに嗅ぎ出されはしないかと、ギョロギョロ眼であたりを警戒している。どうしてこうした不自然極まる欲望があるものか、またどうしてこんな石がヤフーどもに役に立つものか、主人にはさっぱりわからなかったが、今にして思えば、我輩が人類の習性だと言って話した、あの貪欲と全く同じ原理に基づくものに相違ない。」(第四篇第七章)」(169-170頁)

スウィフトは、石に価値があるとする「現実」を風刺し、そのような貪欲に動かされる人間の現実を描き出す。
スウィフトという人の精神は、あらゆる「現実」の中の理念や理想(「石の価値」)の「いかがわしさ」に敏感である。なぜならこの精神は、「現実」をそのまま現実として読み取るのではなく──高坂氏があまり好まないだろうドイツ哲学系の用語を使えば──「理念的なもの」を媒介として現実を解釈するからである。(「理念的なもの」とは「石の価値」としての理念や理想、つまり実体化された理想や理念とは異なって、現実と緊張関係をもつ。)
虚構を通しての現実とは、実体化された「現実」の虚構性への気付きであり、現実をこのようなものとして見ることができる点に、人間精神の独自性があると言えるのではないだろうか。
ヤフーとは、このような人間精神の独自性を転倒させた動物である。ヤフーは、「理念的なもの」ではなくて欲望を媒介として現実を受け止める動物である。欲望による媒介によってつくられる関係とは、性欲だけで結びつく男女がそうであるように、およそ人間らしい関係とは言い難いだろう。
「理念的なもの」は、しかし常に現実に媒介されて現実に対する批評の機能を発揮するわけではない。
「理念的なもの」と現実との関係が弱まっていくと、無力感やシニシズム、ペシミズムが強くなる。そうなると、「理念的なもの」は、ただ激しい否定の精神となる。そこで描かれるのは、救いようのない人間の暗い現実ばかり。「ヤフー」がそれだ。
著者はスウィフトの現実を見る眼を評価はするが、人間の否定的な側面ばかりを描くスウィフトの悲観主義には与しない。

「私はペシミズムやシニシズムをすすめるためにスウィフトのことを書くのではない。人間は、人間の弱さや醜さを認識しつつ、なお希望を託し、なんとかやって行く不思議な能力を持っている。スウィフトが生きた近代の初めはそうした能力が必要な時代であった。スウィフトが書いたことは人間の否定的側面に偏りすぎてはいるが、当時はそうした側面が通常の時代より見えた時代であった。それでも人びとはなんとか仕事をした。スウィフトは結局ペシミズムに陥ってしまったけれども、しかし彼は見事な書物を書いた。そのことを思いながら、この暗い書物[『ガリヴァー旅行記』]を読んで頂きたい。」(「はじめに」)

「それでも人びとはなんとか仕事をした」、とある。
「理念的なもの」は時に無力感やペシミズムという「想像力の病」(3月22日を参照)を引き起こす。これを癒すのは日々の仕事である。