ファンタジーと言葉

アーシュラ・K.ル=グウィン『ファンタジーと言葉』青木由紀子訳、岩波書店、2006年


入学式やオリエンテーションを終えて、いよいよ授業がはじまる時期となりました。
学校というのは、夢によって成り立つ空間だと思います。
個々の夢は社会的な幻想の根から養分を得て開く花であり、この個々の夢を通して社会的な幻想は増殖させられたり、あるいは次の世代に伝えられたりします。
この夢と幻想の範囲が、共同の世界を形成します。
大学が大学として成り立つためには、この共同性が、そしてその共同性を成り立たせる夢が必要です。
そして、ここに、共同性を成り立たせる想像力(夢や幻想を見させる能力)の質という問題が浮上します。(以下、文体をかえて述べます。)


想像力の質──前回(3月26日)はこれを、私的想像力と公的想像力の「病」や「健康」と表現した──を問うというのは、なかなか難しい。というのは、想像力の働きやそれの生み出した想像物を評価する営み自体が、想像力の営みだから。
想像力の「病」や「健康」というのは、ある種の前提を認め、その前提から価値判断することによって弁別される。
「病」と「健康」を弁別するその前提は、かつては共同体の神話や宗教という形で存在したが、共同体を破壊しながら自己を形成してきた近代社会では、それは道徳や倫理、文学や芸術、政治や経済に分散してゆく。
そうした、分散の一つの形が、ファンタジー文学なのだろう。

冒頭に挙げた『ファンタジーと言葉』の著者、ル=グウィンは『ゲド戦記』の作者として有名。本書は、世界を理解するためのヒントとなる言葉がつまっている。
以下は、『ファンタジーの本』に寄せた序文「現実はそこにはないもの」から。

「わたしたちが現在フィクションというとき、それは一八世紀以来の伝統を持つ小説と短編物語を指すが、このフィクションは、自分と異なる人間を理解するために、直接の経験を除けば最善の手段となる。フィクションはしばしばほんとうに、直接の経験よりはるかに役に立つ。・・・経験のほうは、ただただ人を圧倒して、何が起こったかわかるようになるのは何年も何年も経ってから、いや、結局はわからないことだってあり得るのだ。フィクションが現実よりはるかにすぐれているのは、事実、心理、道徳に関して、役に立つ知識を提供してくれるところである。」(56頁)

経験の意味がわからないかもしれない、ということは、よく心しておかなければならないことだろう。
そして、だからこそ、事実や現実そのものよりも、むしろフィクションこそが役に立つ知識を与えうる。フィクションは理解できる形式で書かれるから。
ただしフィクションは、しばしば文化によって規定され、異文化の人には理解できないことがある。

「写実的なフィクションは、文化によって規定されるものだ。それが自分の文化の、同時代の話であれば、問題はない。一方、その物語が、別の時代の、別の国のものだとすると、それを読んで理解するためには、置き換えあるいは翻訳という行為が必要になるが、多くの読者はこれができなかったり、したがらなかったりするのである。」(58-59頁)

文化的に通用する範囲が限定される「写実的なフィクション」とは異なって、ファンタジーは普遍的である。

「ファンタジーもしばしばありきたりの生活を舞台にするが、リアリズムが扱う社会的慣習よりも恒久的で、普遍的な現実を原材料として使う。ファンタジーをつくりあげている実体は心理的な素材、人類に共通の要素である。現在のニューヨーク、一八五〇年のロンドン、三千年前の中国について何一つ知らなくても、あるいは学ばなくても、わたしたちにわかる状況やイメージがその普遍の定数なのである。」(57頁)

例えば、現代映画はなぜかくも多くファンタジーの形式を取るのか。その理由はファンタジーのもつ普遍性がグローバル化したこの世界に適合的だからだろう。
宮崎駿が世界的に評価されるのも、あるいは村上春樹が世界的に読まれるのも、それが写実的なフィクションではなく、普遍的な神話のファンタジーだからだ。

「二〇世紀から二一世紀への変わり目の社会は、グローバルで、多言語主義で、恐ろしく非合理的で、たえず根本的な変化にさらされており、連続性と、共通の人生経験を前提とする言語では描写できない。だから作家たちはグローバルで、直観的なファンタジーの言葉に頼り、できるだけ正確に「わたしたちの今の」暮らしを描写しようとしているのだ。
そういうわけで、今日非常に多くのフィクションにおいて、わたしたちの日常生活を奥の奥まで見抜く正確な描写が、奇妙な感覚で一面に彩られたり、異なる時代の話になったり、想像上の世界を舞台にしたり、薬物や精神病による幻想の万華鏡に溶かし込まれたり、あるいはつまらない平凡なものが突然の高まりとともに幻視的なものになったり、また同じように簡単にもとの平凡なものに戻ったりするのである。」(58頁)

現実と幻の間を往還する世界に生きる人間にとって、その世界を生きる手がかりとなるのは、言葉であり、フィクションである。
ところで、学校では、この生きる手がかりをしばしば「心の糧」などとよんだりする。「心の糧」という言い方には何か道徳臭いニュアンスが付きまとうが、しかし、それは(一般的に了解される)道徳などよりもずっと深い次元において必要とされ、実際に食されているものなのだ。
新約聖書には、荒野で四十日間断食したイエスを悪魔が誘惑する有名な物語がある(マタイ4章)。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑する悪魔に、イエスは「人はパンだけで生きるものではない、神の口からでる一つ一つの言葉で生きている」とこたえるのだが、現代においてこの言葉のパンを生み出すのが、物語作家である。
著者は、作家ボルヘスの偉大さにふれながら、この小さなエセーを締める。

ボルヘスの作品は、わたしたちのために「現実には存在しない事物の像を精神的に構成」してくれ、わたしたちがどんな世界を生きているのか、その世界のなかでどこへ行く可能性があるのか、何を寿(ことほ)ぐことができ、何を恐れなければならないのかについて判断する助けとなってくれるのである。」(59頁)

想像力の「病」と「健康」の判断とは、どんな世界を寿ぎことができ、またどんな世界を恐れなければならないのかについての判断、と言い換えることができるだろう。
現代人は、どんな世界が寿ぐべき世界で、どんな世界が恐るべき世界なのか、その判断能力を失いかけながらも、例えばファンタジーという形でそれを取り戻そうとしている。
ファンタジーは非現実的な夢物語などではない。
前回(3月26日)とりあげた石橋湛山は、日蓮宗の寺に生まれ、若い頃は文芸批評を著した。
彼の社会現実を見る眼の鋭さは、どんな世界を寿ぎまたどんな世界を恐れるべきかを見透す判断力によるものだったのではないだろうか。そしてその判断力は、幼少期の宗教的教育や若い頃の文芸研究と切っても切れないものだったのではないだろうか。