哲学的日本を建設すべし

石橋湛山「哲学的日本を建設すべし」(明治四五年六月号『東洋時論』「社論」)、松尾尊兌編『石橋湛山評論集』岩波文庫1984



卒業・修了シーズンです。
卒業・修了される皆さんの前途をお祈り申し上げます。


さて、前回(3月22日)の日記の末尾に、「公的想像力と私的想像力の病」にふれた。
今日は、「公的想像力の病」について考えるために、「健康」な公的想像力を発揮した事例として、石橋湛山を取り上げたい。
石橋湛山は、1884(明治17)年生まれ、1973(昭和48)年死去。在野のエコノミストとして名高く、戦後わずか2ヶ月で病のために総理大臣の地位を去った「悲劇の宰相」としても有名。「小日本主義」など日本の進路についての評言の適確さで称賛される。

本論冒頭で湛山は、訴訟に現れる日英両国人の相違を指摘する。
ある日本人が、思想上の事件のために有罪を受け、控訴しようとしたが、弁護人や知人にかえって不利となるので軽微の処罰に甘んずるがよしとすすめられ、控訴を断念した。それに対して湛山は、わずか「数シリングの金子(きんす)に付着せる自己の権利を主張するために、数年にわたって、政府を相手取って法廷に争った」英国のジョン・ハンプデンの例を挙げる。

「彼はさすがに英国の紳士であった。国士としての自覚があった。金子はわずかの事であっても、そこに存する我が国民としての権利を軽んずべからざることを十分に知っておった。」(24頁)

目先の利益からすれば、控訴を断念した日本人の方が賢いかもしれない。しかし、目先の利益からする判断のために、かえって国民としての権利は軽んじられることになる。
この日英の相違は何に由来するのか。
湛山は、上の日本人の思想を「浅薄弱小なる打算主義」と呼び、ここに日本人の人心に食い入る病弊を見出す。

「実に我が国今日の人心に深く食い入っておる病弊は、世人がしばしば言う如く、そが利己的になったことでも、打算的になったことでも、ないし不義不善に陥っておることでもない。吾輩はむしろ今日の我が国には、余りに利他的の人の多く、余りに非打算的の人の多く、余りに義人善人の多いことに苦しみこそすれ、決してこれらのものが少ないとは思わない。しからば吾輩の認めて以て我が国現代の通弊となす処のものは何か。曰く、今述べたる利己に付けても利他に付けてもその他何事に付けても、「浅薄弱小」ということである。換言すれば「我」というものを忘れて居ることである。確信のないことである。膊力の足りないことである。右顧左眄することである。」(25頁)

なぜ、日本人は浅薄弱小に陥ったのか。
湛山はそれを、日本に哲学がないからだとする。そして、哲学がないとは、「言い換えれば自己の立場についての徹底せる智見が彼ら[我が現代の人心]に欠けておる」(26頁)ことだという。
自己の立場についての徹底的なる智見こそ、公的想像力を健全に保つ鍵となる。

「顧みるに我が邦は今や内外種々なる点において容易ならぬ難局に立っておる。満州の問題は如何、対支那の問題は如何、資本家対労働者の問題は如何、いわゆる高等游民の問題は如何、国民道徳の問題は如何。かくの如く数え来れば、一刻もその解決を猶予して居られない大問題難問題は、国民の四囲内外にほとんど身動きも出来ないほど積っておる。そもそもこれを吾人は如何にすべきか。曰く、ただ吾輩が前説せしが如き強力鋭利なる大智見の刀を以て、片端からこの乱麻を断って行くのみである。」(27頁)

「大智見」によって、「乱麻」を断つ。
乱麻とは、乱れもつれた麻のこと。公的問題は、まさに乱麻の如くあり、その複雑さを解きほぐすは容易でない。それが四囲に積もれば、身動きもできなくなる。

政治が直面する世界とは、常にこのような難局である。そこでは、何が理性的であり且つ実現性ある判断なのかを知ることは、なかなか難しい。
実現可能かもしれないのに、自ら限界を定めて不可能とし、それを主張する人を非現実的と非難することもある。
逆に、非合理で実現不可能なことなのに留まることが出来ずに突き進み、にっちもさっちもいかぬ泥沼にはまりこむこともある。

湛山は、このような難局における大智見の意義を強調する。

この社説が書かれた明治四五年の後の歴史をふり返るならば、その後の日本が「大智見」なく振る舞ってしまったことの愚かさを思わずにはいられない。
しかし現代の私たちも、そのような歴史に学んで、湛山が語ったような「大智見」をわきまえていると言えるであろうか。

「吾輩は切に我が国民に勧告する。卿らは宜しくまず哲学を持てよ、自己の立場に対する徹底的智見を立てよ。而してこの徹底的の智見を以て一切の問題に対する覚悟をせよと。即ち言を換えてこれをいうならば、哲学的日本を建設せよというのである。
哲学は最も徹底的に自己を明らかにする者である。何をおいてもまず自己を考える。而してその明瞭にせられたる自己から出発して、新しき日本を建設する、これ実に我が邦目下の急務であると思う。」(28頁)

乱麻を断つ「徹底的智見」があってはじめて想像力は、現実の乱麻に絡め取られることなく、健全に伸びゆくことができる。
逆に、この智見を欠如した想像力は「浅薄弱小の打算主義」に病んでいく。


これから社会にでる皆さんに、湛山の「哲学的日本を建設すべし」を贈ります。