センス・オブ・ウォールデン

スタンリー・カベル『センス・オブ・ウォールデン』齋藤直子訳、法政大学出版局、2005年(原著、1972年)


ほぼ3ヶ月ぶりです。

更新できない日々が続くと、このブログも止めようかとか、あるいはコンセプトを変えようかとか、いろいろと考えないわけではなかったのですが、やはり、いままでの基本路線のまま継続していくことにしました。
あいかわらずの低頻度の更新となるでしょうが、ときどき御覧頂けたら幸いです。


ソローの『ウォールデン』(原著1854年。邦訳は『森の生活─ウォールデン』飯田実訳、岩波文庫、1995年)は、なかなか通読することのできない書物である。一文一文に立ち止まらされ、考えさせられる。
たとえば、次のような一節。

「諸君は商売をはじめてみたり、借金地獄から抜け出そうとしてみたり、いつも崖っぷちに立たされている。ところで、大むかしから泥沼にたとえられた借金のことを、ラテン人は・・「他人の真鍮」と読んだが、これは彼らの硬貨のあるものが真鍮でつくられていたからである。いまでもひとは、この他人の真鍮にすがって生き、死に、葬られている。明日は借金を返す、かならず返す、と言いながら、今日、返済できないまま、ぽっくり死んでしまう。」(『森の生活』飯田実訳、上巻15頁)

「ときどき不思議に思うのだが、われわれは黒人奴隷制度と呼ばれる、野蛮とはいえ、北部ではやや縁の遠い人間の苦役のことが気がかりでならないほど─あえて言わせていただくなら─おめでたくできているらしい。北部と南部をどちらも奴隷化してしまう抜け目のない悪辣な親方がいっぱいいるというのにである。南部に奴隷監督がいるのはやりきれないが、北部にいるのはもっとやりきれない。いちばんやりきれないのは、自分自身を奴隷にしている奴隷監督がいるということだ。」(前掲書、上巻16頁)

このアメリカ文学の古典のなかに、スタンリー・カベル──Stanley Cavell 1926年、アトランタ生まれ、ハーバード大学で博士号を取得し、1963年から同大学で教鞭を取る──は「哲学的な美と精密さを発見」する。
『ウォールデン』の「むすび」のなかの一節を引用しながら、カベルは次のように論じる。

「「私は、最も強く正しく私を惹きつけるものに対して、重みをもち(weigh)、腰を据え(settle)、引き寄せられていきたい。……ある事態を想定するのではなく、ありのままにとらえたい。私に可能な唯一の道、その途上にあってはいかなる力も私に抗うことができない道を旅したい。堅固な基盤を持つ前に白持(アーチ)を積み上げ始めるということでは満足できない。……あらゆるところに堅固な底はあるのだ。(XVIII, 14)」[以上の『ウォールデン』の引用箇所は、岩波文庫版では下巻286-287頁。ただし、邦訳のニュアンスは異なる。]
腰を据えるということは、ものごとの重みを量ることに関係している。また、熟慮し熟考することとも関係している。思慮深く生活するとは、腰を据えることであり、自分自身を明瞭にすることであり、自らの足場を発見することである。」(カベル『センス・オブ・ウォールデン』88頁)

しかしながら、思慮深く生活することは困難である。私たちは、しばしば無意識のうちにも嘘を口にし、それを論理の言葉で塗り固め、自ら信じ込んでしまう、のではないだろうか。
カベルは、ソローに即しつつ、次のように続ける。

「最初は思慮深い選択のように思われるものが、申し分のない選択となってしまい(彼らは、他に選択肢がないと心底考えている)、思慮深いものではなくなる。そして……熟考されずに軽々しく行われる選択となる。」(89頁)

つまり、思慮深く生活しているつもりだったものが、実は腰を据えることも、自らを明瞭にすることもない生き方に陥ってしまう。人は、しっかりとしたヴィジョンをもって生きているつもりでも、いつの間にか悪夢の中に生活する。それなのに、そのことに気が付かない。

「どうしてこのような事態が生ずるのであろうか。この悪夢によって、恐ろしさのあまり目を覚ますことすらないというのはどういうことなのか。それは、ある種の想像力の病、宗教と呼ばれる私的想像力であると同時に、政治と呼ばれる公的想像力の病である。」(89頁)

想像力の病は、事実や経験によって矯正されなければならない。しかし、それで問題が解決するかと言えば、そう簡単ではない。

「われわれは、迷信から解放されることになっていた。ところが、天啓の命令として信じられるものの虜となって凍りついた希望や恐れは、いまや経験の命令として信じられるものの虜となってしまった。」(90頁)

だから、私たちは「経験の限界」をも学ばなければならない。ところが、

「われわれの教育は悲しいことにおろそかにされている。いかに経験の限界を求め迫ってゆくかということを、科学者たちはその生活において学んでいるが、われわれは道徳生活において彼らのように学んではいない。よって、何であれ理性的な要請からはかけ離れたところで、自らの限界を定めてしまう。その帰結は……想像の形而上学、吟味されない空想の形而上学である。」(90頁)

冒頭に引用した『ウォールデン』の中に描かれた人間も、悪夢の中にいながら悪夢と気付かず、必要もない限界を自ら設けて生きている人間、ではなかっただろうか。

これからしばらく、「私的想像力と公的想像力の病」あるいは「想像の形而上学」について考えていきたいと思っています。