対話の哲学

村岡晋一『対話の哲学─ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』講談社、2009年


私たちはいかにして私たちの世界を、そこで大切にされるべき価値観を、共に形成していくことができるのだろうか。(12月27日の最後の引用を受けて。)

同じ大学に勤める同僚や同じ関心をもつ研究者と一緒に、「地域創成リーダーセミナー」なるプログラムの企画運営の一端に携わっている。
先の土曜日にもたれたセミナーでは、人口減少と少子高齢化の進行、財政窮乏化が進むなかで、地域社会における官と民の共働はいかにあるべきか、ということが話題にされた。
目指すべきは、官の都合による「協働」ではなく、問題意識や解決の方向性、理念を共有し、共に地域を創り出す「共働」。そこで大切なのが、対話と共感である、という。

冒頭に挙げた書物は、このような現実世界における対話に役立つように書かれているわけではない。
しかし、この書物のような対話についての思考の深掘りをしないではじめられる対話の試みは、単なる自己主張でしかなかったり、他人を自分の都合で使う身ぶりでしかないだろう。

「最近日本で語られるようになった「対話の勧め」にたいしては、一言述べておきたい。日本も国際社会の一員となったのだから、いわば鎖国状態を脱して、外国の人びとと積極的に対話することを学ばなければならないとされる。ここまではよい。しかしそのあとに、だからこそわれわれ日本人はYESとNOをはっきり言えるようにならなければならないと語られる。そのさい前提されているのは、対話はたがいの言い分を主張することだという考えである。しかし・・これはじっさいには対話の勧めではなく、モノローグの勧めにすぎない。」(209-210頁)

ノローグ=独り言と、ダイアローグ=対話との違いは、我と汝、私と君の関係の違いである。

「一般にわれわれは、ひとやもののあいだに関係がなりたつためには、それらのあいだになんらかの共通性なり同一性がなければならないと考えている。つまり、関係を保証するのは関係項が共有するなんらかの「同一性」なのであって、それにたいして、関係項がもっている「差異性」のほうは関係をそこなう有害な要因とみなされるのである。・・そこで当然ながら、関係を確かなものにするためにはできるだけ「差異性」を排除せよという発想になる。」(9-10頁)

学校や職場でも何か共通のことが話題のきっかけになり、関係を作りやすい、というのはよく経験するところだろう。この共通のことに基づく関係は、しかし実は、共通のものに向かいあっているだけの関係であり、異なるものに向かい合っているのではない。そのため、

「ここではどんな外部も、関係すべき他者も存在しないのだから、関係そのものが不可能になっている。・・要するに、きわめてあたりまえに見えた関係についての[上述の]考えかたは、じつはきわめて自閉的な考えかたであり、「ひとりごと(モノローグ)」の思考なのである。」(10頁)

ノローグの考え方は、共通性の範囲に入らない者を排除する危険をもつ。「自分たち」の共通性を確認する作業は、同時によそ者を確認する作業でもあるからだ。
ノローグ思考は、左右のイデオロギーを問わず存在する。非合理的に見える右翼ばかりでなく、良心的に見える左翼の中もモノローグ思考が支配する。そもそも良心的左翼の原点である啓蒙主義のなかにモノローグ的思考が宿っている。

啓蒙主義は一見どんな超越的な原理も認めない徹底した世俗主義、内在主義のように見えるが、じっさいにはある種の「神学」への衝動を秘めているのである。」(29頁)

啓蒙主義は、普遍的な人間性=理性的人間の教説である。それは、伝統的な神学の神を放逐するが、しかし人間性=理性的人間という神を密輸入する。この真の人間性の所持者が新しい神となり、理性の所持者とそうでない者とが区別され、そうでない者は排除される。
社会主義では、その所持者は、資本主義のシステムに汚されていないプロレタリアートであり、その前衛である共産党となる。この言説構造が、粛正や虐殺を招いたことはよく知られている。
他方、資本主義では、例えば次のようになる。

「近代の支配的人間観であるホモ・エコノミクスの考えかたにしたがって、・・理性的人間とは、「みずからの生活を合理的に設計し、生活を物質的に豊かなものにしていくような人間」であると。こうした規定は未開社会の人間にはあてはまらないし、蓄財を卑しいとするような宗教を信奉する人びとにとってはすこしも理性的ではない。しかし、ひとたびこうした答えが掲げられてしまうと、もはやこの意見の対立は、「人間」と「人間」のあいだの対立ではなく、「人間」と「非人間」との間の対立になってしまう。・・彼ら[非人間]は排除され隔離されるべきだということになるか、ばあいによっては、彼らを徹底的に支配・管理し、まっとうな人間になるように教育するのが彼らのためであるといった、きわめておせっかいで危険な思想が生まれてくる。」(30頁)

ホモ・エコノミクスに関する説明については、昨日説明したような「誤解」が含まれる。(つまり、蓄財を卑しいとする人は、蓄財を卑しいと考える自分を満足させるように行動する、と考えるのが経済学の前提であるに過ぎない。)
(補足:しかし、このような「誤解」が生まれるのは、この経済学を生み出した世界が、同時にオリエンタリズム(西洋と東洋、文明と野蛮を区別し、自らを西洋・文明と呼び、東洋を野蛮と呼ぶ思考・学問の体系)を生み出した世界でもあるからだろう。もしも、経済学がオリエンタリズムと根っこでつながっているとすれば、経済学的な視点をとるということ自体が西洋的な価値観をとることを意味し、上の言葉は「誤解」ではなく、正しい「解釈」と言えるかもしれない。)
ノローグの思考は、しかし実は、啓蒙主義にかぎったことではなく、そもそも「哲学」という営みの始まりから一貫したものだと、本書の対象とする思想家たちにならって、著者はいう。
ノローグ的哲学とダイアローグ的哲学の差異をもっとも鮮明にうつしだすのは、ユダヤ人思想家ローゼンツヴァイクハイデガーとの比較である。

「ローゼンツヴァイクハイデガーの決定的な違いは、ハイデガーが「対話的人間」を非本来的な「頽落した」ありかただと批判して、そこから「メタ倫理的人間」という本来的なありかたへ立ちもどることを明示するのにたいして、ローゼンツヴァイクがその逆を主張するところにある。それどころかローゼンツヴァイクによれば、「メタ倫理的人間」は「対話的人間」へいたる第一歩でさえある。」(105頁)

ほとんどの哲学は、日常性にある人間を、世の中の「腐敗」や「虚偽」に巻き込まれた存在とみなし、そこからの覚醒の道を教える。人間は、ドクサに囚われ、真理から遠ざかっているのだ、という。
ハイデガー(特に『存在と時間』のハイデガー)もまた、「頽落」した非本来的な人間から、死の自覚を通した覚醒を教える(そんな単純なことではないというお叱りを受けるかもしれないが)。しかしこれこそ転倒であり、この転倒を逆転させなければならない、とローゼンツヴァイクは考える。

「たしかに、人間はひとりで生まれてきて、それぞれが自分自身の死を死ななければならないのは事実だが、だからといって、人間の生が孤独であり、みずからに閉ざされているということにはかならずしもならない。むしろ、ほんとうに孤独なものだけが「対話する」ことができ、ほんとうに沈黙しうるものだけがほんとうに他者によって語りかけられる準備ができており、したがって他者に応答することができるのではないだろうか。」(106頁)

エコノミストからは、そんなこと一人でやっていて、と言われてしまうかもしれない。
しかし、まさにこのような「深淵」の自覚にこそ対話の可能性があるのだ、と著者は言う。
深淵のなかの孤独。あるいは、将来を描けぬ絶望、強者に対する無力。多くの人が苦しんでいる場においてこそ対話が始まる、という、絶望の中の希望の哲学を、著者はみごとに描き出している。