21世紀の教養

芹沢一也荻上チキ編・飯田泰之他『日本を変える知─「21世紀の教養」を身に着ける』2009年、光文社
芹沢一也荻上チキ編・飯田泰之他『経済成長って何で必要なんだろう?』光文社、2009年


経済(学)と思想とは、必ずしも相性が良くない、と感じる。
もちろん、経済思想というのもあるから、思想一般が経済学と相性が悪いわけではないが、この両者の関係を考えると、前回(12月25日)扱った「問題の捉え方」というものについて考えさせられる。

戦後の日本ではマルクス主義の影響力が強く、資本主義社会には何からの問題が必ず存在すると考える人が大半だったと思う。どんな社会にも必ず問題はあるだろうから、このような予断は間違えることがない。実際、公害や環境破壊が、その確信を強めた。
しかし、マルクスが考えたように革命はやって来なかった。革命がとてもやってきそうにないほど市場経済が成功した。
1950年生まれのエコノミスト岡田靖氏は、経済学者の飯田泰之氏との対談で次のように述べる。

「岡田:・・・僕が高校生の頃、社会に対して批判的な視点をもっている人間にとっての最大の問題は、市場経済があまりにうまく管理され、労働者階級が資本主義経済に対して本来もつべき怒りをカネで解決し、怒りを感じさせないようにしていることだった。じつは、当時の新左翼の理論─例えばマルクーゼとかの理論というのはすごくて、市場経済は無制限に成長していくと考えている。
・・・
岡田:・・経済はどうにも止まらないんで、労働者がいつまで経っても目覚めない。どんどん生活がよくなる。だから、われわれ新左翼理論に目覚めた学生が労働者を覚醒させなければいけないというのが、当時の前衛の理論なわけです。既存の左翼は生活改善の話しかしていないから、経済成長に呑み込まれてはダメ。われわれは人間疎外とか、より根本的な問題についての認識があるから、この経済的成果の裏側に隠されている欺瞞性に気がついているのだ、というわけです。」(『経済成長って何で必要なんだろう』97頁)

「欺瞞性」と呼ぶかどうかはさておき、市場経済、経済成長にはもちろん問題が生じた。

「岡田:たしかに公害問題はあります。また、人間疎外というか、経済的に豊かになったって、実存の抱える問題がつねにある。その問題はお金で解決できないことは事実です。だけど、公害は規制や補助金、あるいは課徴金で対処できるし、個人の実存の問題はどうしたって社会には解決できない。まあ、こういうふうに割り切れるかどうかで、エコノミストになれるかどうかが決まるともいえますが。
飯田:そうそう。」(前掲書、99頁)

この逆を言えば、思想とは(多くの場合)、「個人の実存の問題」を「社会」で解決しようとするものだといえるのかもしれない。
それに対してエコノミストは、公害のようなものは社会の問題として解決しようとするが、実存の問題は個人の問題としてのみ扱う、そのような意味での個人主義者である。
このような個人主義の態度は、経済学というものの前提に関わる。飯田泰之氏は、経済学の基本的な考え方を次のように簡潔にまとめる。

「経済学というのは、いったい何をやっているのか。経済学の思考というものの一番の出発点になるのが、
 ・希少な対象を取り扱う
 ・人々は自分自身の満足度を最大にしようとして行動している
という二つのポイントです。」(『日本を変える知』23-24頁)

特に2番目のポイントは、「方法論的個人主義」という「なぜか論壇では非常に評判の悪い思考法」(25頁)である。
これは、

「「人は自分のことだけを考えて行動する“べきだ”」と主張しているわけではない・・
ポイントは、「人は自分のことだけを考えて行動する“もんだ”」と考えると、物事の説明が非常にうまくいくという点なんです。」(前掲書、25頁)

経済学では、例えば世界人類の幸福を求めてなされる活動も、それを「自分のことだけを考えて」なされる行動と解釈する。そうすると、人間の行動がうまく説明できるのだという。
「合理的経済人」の誤解についても飯田氏は次のように説明する。

「経済学は「合理的な経済人」というものを仮定してモデルを組み立てます。それを聞くと「非現実的だ、人間はそんなに何でも知っているわけじゃない。みんな非常に不十分な知識のなかで行動しているんだ」という感じで反論されます。これも実は用語法の誤解です。
・・・・
経済学者が仮定する「人々は合理的である」というのは、たとえばA君が何でも知っているとか、A君は世の中のモデル、経済状態などをぜんぶ知ったうえで行動しているなんていう、とんでもないことを言っているわけではありません。
経済学にとってどうしても必要な仮定というのは、A君がどうやって満足するのかを、A君より知っている人はいない、たとえば、どうしたら私が満足できるかというのは、私が知っている必要すらなくて、私がほかの人よりは知っていればいい。自分のことは自分が一番知っていればいい、完璧である必要はもちろんない、という状態が「合理性」だと理解していただきたい。」(前掲書、27-29頁)

先にもふれたが、経済学と思想との相性の悪さは、このような経済学の個人主義に由来しているように思う。
しかしながら、だからといって経済(学)が思想を必要としないというわけではない。経済学的な政策立案のためには、政策目標を支える価値観がなければならない。

「[なぜ経済学的な政策立案がうまくいかないのか]一つは経済政策にとって─これは経済政策以外でもそうかもしれませんが─政策目標が明確でない、ということがあげられます。つまり何をしたいのかがはっきりしない。
日本の場合、格差であれ、少子化対策であれ、教育であれ、何についてもそうなんですが、核になる価値観みたいなものが失われています。・・・
・・・
選挙民が選ぶのは政策ではなく価値観です。そして、その価値観に従った政策をテクノクラート(官僚)が粛々と進める。しかし、日本の民主党自民党には、どうも価値観の差がみえてこない。・・・
・・・
経済学の知識というのは、最初に触れたように、非常に工学的な部分があります。問題を与えられてはじめて、その問題を解決する最適ツールを探してくるという性質があるんです。平たく言いますと、先に「こうしてほしいんですけど、どうしたらいいですか」という注文、オーダーがないと、答えが出せないわけです。
しかし肝心の価値観が抜け落ちているので、多くの経済学者が仕方なく価値観の部分まで含めて政策プロポーザルを書くことになる。しかし、価値観問題に口を出したとたんに、私を含め、多くの経済学者は急に三流評論家というか、素人社会学者みたいになってしまう。」(前掲書、63-64頁)

日曜論壇などでエコノミストの話を聞いて物足りなく感じるのは、「目的」や「価値」に関する議論に深まりがないことによると、たしかに個人的に思うところではある。
しかしこれは、エコノミストだけの責任ではないだろう。
ある価値観を社会的に実現するために必要となる経済学的な思考力が、エコノミストではない人にも求められているのではないだろうか。思想はしばしばそれを「工学的」といって揶揄するかもしれないが。