共同性を維持する現代の社会現象—その1

総務省は25日、2010年10月実施の国勢調査の速報値を公表した。

朝日新聞は1世帯あたりの平均人数がはじめて2.5人を下回った(約2.46人)ことに注目し、「孤族化」の傾向が表れたと報道した。
朝日新聞が「孤族」というのに対して、NHKは「無縁社会」という言葉を用いて、現代社会の問題を抉る。
そしていずれも「絆」の大切さを強調する。
しかし、「絆」はつねに両義的だ。

ラカン社会学樫村愛子氏は『ネオリベラリズム精神分析 なぜ伝統や文化が求められるのか』(光文社新書、2007年)の第四章「共同性を維持する現代の社会現象」のなかで、「絆」を創り出そうとする四つの現象を取り上げて論じている。

今日は宗教的共同性を紹介しよう。

宗教的共同性について著者が注目するのは、ニューエイジ
旧来の、教団や教義を中心とする宗教とは異なり、ニューエイジは「商品を消費する形で信仰されている、教団組織をもたない宗教である」。
著者は事例として、アロマテラピー、ヨガ等の心身治療的な商品や、カラーセラピー、ドリームワーク等の心理療法の手法を取り入れた疑似心理療法などを挙げている。
その特質について著者は次のように言う。

ニューエイジにおいては強力な他者への帰依がなく、自分の中の無意識や自分の中の無限の力が信じられており、そういった無意識を通じて辛うじて他者とつながる。自分の中の他者性が「大いなる他者」とつながっている。そこでの他者とのつながりは観念的で脆弱である。」(199-200頁)

心理療法的な手法によって見いだされた「大いなる他者」(その表現の仕方は様々だ)とのつながりを、種々の商品の購入や講習への参加を通して発見していく。
ひところテレビを賑わした「スピリチュアル」なども、この例の典型であろう。
(著者は、江原啓之細木数子などを「メディア・スピリチュアリズム」と呼んでいる。なお、「スピリチュアル」自体は古代以来、人類の文化に大きな影響を与えてきた重要なものであり、思想的にも学術的にもまじめな研究対象となっている。)

著者は、ニューエイジの特徴を精神分析と比較して分析する。

心理療法が宗教化するということ[ニューエイジのこと]は、心理療法の側から見れば、心理療法がやるような徹底的な主体の再帰化[社会学用語、ひとまず反省ぐらいに置き換えて理解しておこう]をどこかで止めてしまうことを意味する。宗教ではないカウンセリングなら、クライアントはどこかで自分の弱さや現実と向き合わなくてはならない。しかし宗教化した心理療法では、問題や力は「気」のような外側の力に委ねられてしまうので、どこかで都合のいい解釈に逃げることができる。」(201頁)

著者はこのように述べて、宗教と精神分析の方向性の違いを際立たせ、宗教的な心理療法としてのニューエイジの問題点を示唆する。

もちろん、現実を受け止めきれず、宗教的な言葉に親和的な人には、カウンセリングよりはニューエイジが問題解決に寄与することもあるだろう。またカウンセリングが何らかの「都合のいい解釈」を利用することもあるだろう。
心というものは、想うこと・思うことが現実なのだから、心の療法は、どうしても解釈や想像や幻想に関わる。だから、カウンセリングであれニューエイジであれ現実の解釈にすぎず、両者の違いを絶対的なものとみなすことはできないだろう。
しかし、心に関わる者(ということはつまり、人間に関わる者でもある)が注意すべきことを、精神分析ははっきりと見据える。

「コミュニケーションに張り付いている人々が、排除されまいと強迫的に人とつながろうとせずとも、存在できる社会が構成できればと思う。また、原理主義的・宗教的な幻想による信頼ではなく——すなわち、他者を排除する可能性のある信頼ではなく——言語や芸術など文化を通じた信頼——すなわち、外傷を記述し他者を受容しうる信頼——をもつことができればと思う。」(315頁)

原理主義的・宗教的な幻想による信頼」が「排除」の可能性を伴うという認識は、決定的に重要だと思う。
というのは、「絆」や「つながり」を創り出そうとする人間の営みが、この種の幻想と無縁ではありえないと思われるからだ。
多くの「絆」が「排除」を含む。「絆」の両義性と言ったのはそのことだ。

「絆」や「つながり」を創り出そうとする働きを皮肉りたいのではない。
わたしたちは、幻想と幻滅の経験を繰り返し、あまりにも皮肉・冷笑の態度を身につけてしまっている。

しかし、幻滅とは、この「両義性」の自覚を欠いているところに生じるのではないだろうか。