アフガニスタンの悲しみ

モフセン・マフマルバフアフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』(武井みゆき・渡辺良子訳)現代企画社,2001年


凡例に,本書の説明がある。本書は,イランの映画監督モフセン・マフマルバフ氏が,映画『カンダハール』(2001年)の製作後に行ったアフガニスタンに関わる重要な発言をまとめた,独自の日本語版である,とのこと。
モフセン・マフマルバフ氏は,1957年にイランの首都テヘランの貧しい下町に生まれる。パーレビ王政打倒をめざす地下活動に身を投じ,17歳のときに警官の銃を奪おうとして失敗,4年半にわたる獄中生活を体験する。1979年のイスラーム革命で釈放。世界を変えるのは,暴力ではなく文化であるとして,はじめは作家として,1982年からは映画監督として活動をはじめる。アフガニスタンについては,『サイクリスト』(1988年)と,上述の『カンダハール』(2001年)を製作している。この二本の映画を作るためにマフマルバフは,およそ一万頁の本や文書を研究したという。

アフガニスタンでは,この20年間,学術的な統計はまったく取られていない。すべての統計は,相対的で概算的なものである。この統計によれば,1992年のアフガニスタンの人口は2000万人だった。ソ連侵攻開始から現在までの過去20年間に,約250万人が殺され,あるいは死んだ。この大量死と殺戮の原因は,軍事的攻撃,あるいは餓死,あるいは医療設備の不足にあった。言い換えれば,年に12万5千人,1日約340人,1時間14人となる。つまり,この20年間,アフガニスタンでは,5分に1人がこの悲劇により殺され,あるいは死んだのである。ロシアの潜水艦の中で,さほど多くない人数が死の危機にあった時には衛星放送が刻一刻のニュースを流していた世界で,あるいはまた仏像の破壊についての報道になら刻一刻耳を傾けていた世界で,5分に1人のアフガン国民の死については,25年もの間,誰も語ろうとしなかった。」(21-22頁)

さらに難民の数は,死者の数の2.5倍を上回るという。

「私は,この2〜30年間で人口の10%が殺されたり,国民の30%が故国を逃げ出したという国が他にあったとは思えない。そしてまた,世界がこれほどまでに,こうした事態に無関心だったという例を思い出すこともできない。内外の絶え間ない戦争のために殺されたり,難民の絶え間ない戦争のために殺されたり,難民となったアフガニスタン国民の数と,パレスチナの全人口は等しい。しかし,この人びとに対する同情は,われわれイラン人ですら,パレスチナボスニアの人びとに対する同情の10%にもならない。」(23頁)

著者は,統計を調べただけでなく,現実の悲惨を実際に目撃もしている。

「私は,ヘラートの町のはずれで,2万人もの男女や子どもが,飢えで死んでいくのを目のあたりにした。彼らはもはや歩く気力もなく,皆が地面に倒れて,ただ死を待つだけだった。この大量死の原因は,アフガニスタンの最近の干魃(かんばつ)である。同じ日に,国連の難民高等弁務官である日本人女性[緒方貞子氏]もこの2万人のもとを訪れ,世界は彼らの手を尽くすと約束した。3ヶ月後,イランのラジオで,この国連難民高等弁務官の日本人女性が,アフガニスタン中で餓死に直面している人びとの数は100万人だと言うのを私はきいた。」

アフガニスタンタリバン政権によるバーミヤンの仏像破壊が報道されたのは,2001年3月のことである。日本でも,いくつかの佛教教団がこのことでアフガニスタン政府に対する抗議を表明した。しかし,マフマルバフ氏は次のように述べる。

「ついに私は,仏像は,誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は,恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ,自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ。」(27頁)

2001年の9.11のテロから一月もたたないうちに,アルカイダとそれをかくまうタリバン政権を倒すという理由で,アフガン空爆が始まる。タリバン政権はあっという間に倒れ,「自由」がもたらされた。しかし,その「自由」なるものは,昨日(8月26日)も取り上げたペシャワール会中村哲氏の著作によるならば,次のようなものである。

「麻薬をつくる自由。逼迫した女性が売春をする自由。貧乏人がますます貧乏になる自由。子供たちが餓死する自由。この「自由」が解放されたわけですね。私が過去二十年いた中で最悪の時期をアフガニスタンは迎えるに至りました。」(『医者よ,信念はいらない まず命を救え!』43頁)

タリバン時代の「平和」を事実として指摘することが,タリバン派支持とみなされるのか,昨日の引用にもあるように,中村氏は「タリバンムスリム」と勘違いされるようだ。しかし,中村氏が言いたいのは,事実は何かである。

タリバン時代,戦闘地はもちろん例外ですが,あれだけ治まっていた状態,国土の九割が安定した状態というのは,過去アフガニスタンにはなかった。もちろんそのなかで行き過ぎの政策はあったでしょうけれども私が見た中では,東部,南部,カブールにいたるまで,あれほど人びとが平和な時期を送ったことはなかった。どんな政権でも一つの秩序は秩序であります。」(『医者よ,信念はいらない まず命を救え!』98頁)

ふたたび,マフマルバフ氏の書物を引きたい。

タジキスタンドゥシャンベで,私は,10万人ものアフガンの人びとが南から北へ徒歩で逃げる光景を見た。あたかもそれは,最後の審判の荒野のようであった。これらの映像を,世界のメディアは少しも報道しない。戦争で傷ついた,裸足の飢えた子どもたちが,何十キロもの道を逃げてきたのだ。その後,この逃げる群衆は,背後からは国内の敵に攻撃され,逃げようとする先のタジキスタン側からは受け入れられなかった。そして,千人また千人と,アフガニスタンタジキスタンの間にある無人の土地で,彼らは死に,さらに死んだ。あなたは知らなかっただろう。誰も知りはしなかった。有名はタジクの詩人,グルルフサルは言った。「アフガニスタンが持つこのすべての悲しみのために,世界の誰かが死んでも不思議ではない。この悲しみのために,誰も死なないとは何と不思議なことだろう!」」(27-28頁)

正直に言えば,私も,アフガンのことは全く知らなかった。アフガン空爆が始まったとき,賛成もしなかったが,反対もしなかった。
バーミヤンの仏像の恥辱は,ここにあるのだと思う。