言葉をとりもどす

鷲田清一『「待つ」ということ』角川選書,2006年


著者によると,現代は,待つことができない社会である,という。
たしかに,だれも待つことができないようだ。昨日の福田首相の退陣表明も,もう少し待つことができたのなら,と思うのだが・・・
首相に対する無責任という批判は,その通りだと思う。政治家のなすべき仕事を放棄した,と思う。
しかし,ここでは,なぜ責任放棄をしたのか,ということを考えたい。
あまり熱心に見て回ったわけではないが,首相に関して,政権を取ろうと思って政治活動をやってきたわけではない二世議員のひ弱さを指摘する声がある。
たしかに,そういうこともあるのだろう。しかし,どんな人間にも,それぞれの弱さがあるのではないか。問題は,弱さがあらわれでるというとき,そこで何が起こっているのか,である。

「未来があるというのは,希望があるということ,いや希望を容れることができるということである。これにたいして,絶望とは,未来に何も託さない,いや託せないということである。・・
あるいは,もっと一般的に,未来を夢みたり,未来に目標をもつことができるということ,これが,過去に愉しい思い出や苦い悔恨をもつこと,過去のじぶんの行為に責任をとることとともに,ひとであることの証しである。未来や過去をもてるというのは,現在から離れるということであり,現在にあって不在のものを思うことができるということである。」(21頁)

話は逸れるが,8月30日に引用した「分裂気質」と「執着気質」がこの文章の理解を深めることに役立つかもしれない。つまり,未来志向型の病的な気質が分裂気質,過去志向型の病的な気質が執着気質といえるのかもしれない。
いずれにせよ,未来志向も過去志向もなく,現在にべったりくっついたあり方は,著者によれば,人間の証しを欠いているということになる。

「くりかえすが,未来があるというのは,・・希望をもてるということである。何かを待つことができるということである。V.E.フランクルによれば,強制収容所では,クリスマスから新年にかけて,いつも大量の死亡者が出たという。これは,過酷な労働条件によるものでも,悪天候や伝染性疾患によるものでもない。「クリスマスになったら家に帰れるだろう」という,素朴な希望に多くの収容者が身をゆだねた結果だというのである。・・」(22頁)

人間は,希望が失われると,生きていけなくなるのである。
著者は,強制収容所を体験したフランクルを引用し,無数の小さな問題に視野狭窄しながらなんとか生き延びている強制収容所内の人間に,過去も未来も失って「ほぼ点にまで縮まった「いま」への,自己の無惨な封鎖」(23頁)をみる。そしてそれを,「言葉の喪失」と言い換える。

「あるいは,言葉の喪失?
言葉は,ひとを「いま」から引き剥がしてくれるものである。言葉によってひとは時間の地平を超える。「ママ」という言葉を覚えた子どもにとっては,母は目の前にいてもいなくても「母」である。・・目の前にあるもの(現前)から離れることができるということ,それが希望と追憶を可能にし,誇りと落胆をもたらす。」(23-24頁)

一国の首相の退陣に対して,不用意なことを言ってはならないのだろうが,かの人物もまた,「いま」の現前のただなかで,希望を失い,押しつぶされたように,私にはみえる。
しかし,こうした「ほぼ点にまで縮まった「いま」への,自己の無惨な封鎖」という事態は,首相だけではない。日本社会において,少なからぬ人びとが,こうした事態のなかで苦闘している。自殺者3万人以上という現実が,例えば,その例証である。
このように,希望の持てぬような状況のなかで多くの人が苦闘しているからこそ,首相の行動は軽率に見えるのだ。いかに,本人にとっては重いものであったとしても。
では,「ほぼ点にまで縮まった「いま」への,自己の無惨な封鎖」という「強制収容所」の中を生き延びるにはどうすればいいのか。強制収容所という話題に関連して,エリアーデの著作から引用しておきたい。

「・・人間に特有の実存様式は,自分を取りまく世界と自分自身の内なる世界で何が起こっているのか,そしてとりわけ何が起こり得るのかを知る必要があることを示している。それが人間の条件の一つの構造を成していることは,とりわけもっとも悲惨な状況にあっても物語やおとぎ話を聞くことが実存的に必要だという事実によって,明らかにされている。ソヴィエトのシベリア強制収容所についての著作『第七の点』でJ.ビーメルは次のように記している。同じ棟に住んでいた100人ほどの収容者全員が,(他の棟では毎週10人から12人が死んでいった中で)生き延びることができたのは,毎晩ある老女がおとぎ話を話すのを聞いていたからだった。物語への欲求があまりに痛切だったため,一人一人が配給の食糧の一部を分け与えたので,老女は日中働かなくて済み,物語を尽きることなく話し続ける体力を保つことができたのである。」(エリアーデ『象徴と芸術の宗教学』奥山倫明訳,作品社,279頁)

今,日本には,このような物語を語る老女が必要なのではないか。「物語を尽きることなく話し続ける体力」をもった人間が。
昨日は,生意気にも,「日本という国の政治の,深い深いところで進行している病」などという言い方をしたが,その症状の一つが,このような物語あるいはその語り部の不在である,と思う。
多くの人が体力を奪われ,目の前の現実にばかりかかずらう視野狭窄に陥って,未来と過去を失いつつある。そのために,「待つ」ことができず,「投げる」,「切れる」ばかりとなる。
言葉をとりもどすこと。本書にはそのためのヒントがつまっている。