ゲームの仕事

長嶋有『パラレル』文春文庫,2007年


先週後半から体調を崩し,高熱と痛みをベッドで耐えた。
39度まで熱を出すと,ふだんならきつく感じる37度代の熱でも,楽に感じる。しかし,そういうときに動いて病状を悪化させることもあるというので,ずっと安静を心がける。が,退屈で仕方ない。何か疲れずに読めそうな本はないかと思い,本棚のなかから選んだのが,長嶋有『パラレル』(文春文庫,2007年)だ。
長嶋有氏は1972年生まれ,2002年に「猛スピードで母は」で芥川賞を受賞した。氏の作品を読むのはこれがはじめてである。
この本を買ったのは,いとうせいこう氏の『ノーライフキング』をAmazonで注文したときに,例の「この作品を買った人は・・・」というおすすめにしたがってクリックしたからだ。ふだんはAmazonでこういう買い方はしない。
この小説について何かを語るその言葉は,私の場合,すべて偽物になってしまう気がする。私は,ここに描かれている七郎や津田やサオリが嫌いではない。いちばん魅力的なのは七郎の元妻,と感じてしまうのは,なんとなく彼女の寂しさを想像できるような気がするからだろう。もちろん他の登場人物にもそれに似た共感を感じないわけではないけれども,自分の共感が何かポイントを外してしまっているのではないか,というおそれが常に付きまとう。ふだん読みつけない類の小説,というだけでなく,描かれている世界に縁遠い生活を送っていることが,大きな理由だと思う。
おもしろかったのは,ゲームデザイナーの米光一成氏の「解説」だ。本書の主人公・七郎もゲームデザイナーを生業としており,長嶋氏は小説執筆にあたって米光氏に取材したという。
米光氏は,小説のある部分に出会ったときに思わず泣いてしまった。

・・・
だから,ぼくがある一文に辿り着いたときに泣いてしまったのは,ぼくだけの固有の気持ちだろう(今さらのように書くけれども,解説なんていらない小説だから,本文をとっとと読むがいいよ)。

  僕はもう頭の中でゲームの一場面にしてしまっていた。(P211)

抜き出して書くと,泣かせるような文章ではないので,泣いてしまったという書き方がとても大仰に感じられて恥ずかしい気もしてくるうえに,きっと他の人が読んだときには,するっと通り抜けてしまう文に違いないとさえ思える。
・・・・・
泣いてしまってから,自分がゲームを作っていることに,時に不安になったりしていたんだということに気づく。ゲーム脳などと非科学的な批判をされたり,ゲームは子供の金と時間を奪うだけだ,というような言葉を聞いたり。別に気に病んだりはしていないつもりだったけど。
ゲームが子供に悪影響を与えることもある,とぼくは考える。いろんなゲームがあって,いろんなプレイスタイルがあって,いろんなプレイヤーがいる。いろんな影響を与えるだろう。でも,当然のことだけど良い影響を与えることだってある。ぼくが,ある時期,生きていこうと思ったのは,ゲームがあったからだ。ぼくが作ったゲームが,同じように人の気持ちを救うことがある,そう思ってゲームを作っている。だから,気に病んだりはしていないつもりだったのだけど,知らないうちに,ネガティブな言葉や不安が降り積もっていたのかもしれない。」(227-229頁)

ゲーム機はもっていない。ファミコンがではじめてしばらく経った頃に,家庭教師をしていた中学生に付き合ってファミコンをちょっとしたことがあるだけだ。だからゲームのことはほとんどまったく知らないのだけれど,上の言葉は,まさにそうだと思うのだ。
小学生の頃,学校の帰り道はいつも想像の世界に遊びながら歩いて帰った。片道4キロメートル弱の道のりだが,そうした想像の世界に遊ぶことで,学校で満たされずにいた何ものかが救われていた,と思う。
いとうせいこう氏の『ノーライフキング』(河出文庫,2008年)に解説をよせている香山リカ氏は,『ノーライフキング』が発表された1988年当時と現代とをくらべて,次のように述べている。

「物語化した狂気のかわりに不安や抑うつが,王の恐怖のかわりに隣人への不信感や嫉みが花盛りとなり,ネットワークを飛び交うのは人々を興奮させるウワサやゲームの裏技ではなく,他人を貶めることで自己の安全を確認し,ちょっとした憂さ晴らしをするための誹謗や中傷,脅迫ばかりとなった。
・・・・
・・・・
精神医療の現場でも,物語化された妄想を語ってくれる統合失調症の人は激減し,「気分が落ち込んで」と憂うつ気分を訴えるうつ病者と「隣人に恨まれているような気がする」と妄想とも言えないほどのささやかな妄想を訴える人とが,大部分を占めるようになった。それに伴い,「すべては脳の問題」と生物学的精神医学を志す医者が増え,精神病理学精神分析学は今や風前の灯だ。
しかし,ただひとつ変わらないことがある。それは,「子どもに悪影響を与えるのはゲームやアニメだ」という論調だ。『ノーライフキング』が世に出た次の年,現実の世界では幼女連続殺人事件の犯人が逮捕され,当時,20代の青年だった加害者は20年後の2008年,死刑を執行されたが,その10日あまり前には秋葉原で25歳の派遣社員が無差別に7人を殺害した。20年を隔てて起きたふたつの事件で,識者は同じように「アニメやゲームの影響」をもっともらしい顔で指摘した。結局,誰も何もわかっていなかったのだ。」(『ノーライフキング河出文庫,207-208頁)

おそらくこれからも,じゅうぶんにはわからないのかもしれない。
しかし,仕事に飽き飽きしていた『パラレル』の七郎も,新しいゲームの企画書を書く気持ちに変わった。何故,彼の気持ちはかわったのか。
仕事復帰を求める元同僚の大人の常識的論理は,七郎を動かさなかった。彼の気持ちを変えたのは,アオイとの会話だ。「金輪際の七郎」(199頁)の回想からはじまるこの会話は,七郎にゲームのおもしろさの根っこを思い出させた,のではないか。
ゲームで遊んだ記憶はあまりないが,人生ゲームは好きだった。あのゲームの楽しさは,ゲームという時空間のなかで自分も生きることができることにある,と思う。
人生はしばしば,このようなゲーム的空間のなかで,生き生きとした生命を取り戻す。